Vol.65 掲載 1985.8
新しい疑問
 戸塚 廉 掛川市家代
掛一小で戸塚と牧沢(後右)に教わったあ(前左から)斎藤義雄、鳥居芳次、山本惣市が児童の村を訪ねてきた。
この連載の二十五回に、児童の村小学校を訪ねて来た中国人学生の話から、彼らの師m暁庄師範の創立者陶行知先生の話しになり、つづいて私の中国─暁庄師範訪問記で、十ヶ月たってしまった。話を昭和九年(1934年)の児童の村小学校に戻すことにしよう。

児童の村は徹底自由人の校長野口援太郎によって大正十三年(1924年)に設立され、子どもにも教師にも完全な自由が許されたために、父母と教師、教師と教師の間に異見、紛争、分裂事件が絶えずくり返され、私を教師にしてくれた偉友牧沢伊平君も学校を去り、疲れはてた主事の野村芳兵衛先生を励まして、クビになり教育免許状を奪われた田舎者の私が、何とかしてこの日本歴史はじまって以来の自由な学校を、本物の民主自由校に作りあげようと決意した─という話からのつづきである。

むつかしい問題がひとどおり片づいて、九年十月にはいよいよ児童の村の機関誌「生活学校」を創刊する準備がはじまった。六年生を受持ち、教え子の受験勉強の夜学と内職の家庭教師を終わって、十時すぎからの仕事である。野村先生は一切を私にまかせきって何も言わない。

さいわい、雑誌など作ることの大好きな牧沢君は、学校をやめてもいろいろと相談にのってくれる。弟の哲郎も教師離れの感覚で協力し、三年生受持の村松元さんは静岡で私と新興教育運動で逮捕され免職になった特異なベテラン教師としての力を貸してくれる。

十一月には六年生の卒業旅行の日光行きを楽しみ、各人百枚ちかい旅行記を書く。野口校長経営の兄弟学校城西学園中学には無試験ではいれるが、とても府立へは入れそうもない子どもしか行こうとしないので、旅行記に夢中になっている子どものことも心配である。

何よりも困難な問題は、私自身の、私立小学校としての児童の村そのものへの疑問が生まれて来たことであった。

私は教師になってから五年間掛川第一小学校で、本物の教師になることを求めて悪戦苦闘し、昭和五年(1930年)一月一日の日記でその喜びを書いている。それは、教師は自分がよく勉強して熱心に教えただけでは本当にいい教師とは言えない、子どもの生活している家庭を正し、社会を正して家庭と社会のもつ偉大な教育力を自分の力と統一して教えなくてはならぬということである。

その子どもの住んでいる村を民主化、郡の教師や住民の中に正しい教育力を作り出そうというのが「いたずら教室」という物語に書かれた私のたたかいであった。

ところが、児童の村にはそのような、子どもがまとまって住む社会がなかった。子どもと共に子どもの住む地域を組織しえない学校は学校ではない。そのような学校に子どもを六年間もとじこめるのは、たとえ教師の教育力が平均よりいくらか豊かであったにしても、子どもに対する罪悪である。ただちに解散して、子どもを公立小学校に戻すべきだと野村先生にせまった。

児童の村の子どもは、みんないい子で、勉強も好きだった。しかし村や労働者の子どもと比べてどこか弱々しかったのである。

本質的には学校でないと思われる学校の機関誌によって、公立小学校の教師によびかけるという矛盾を背負って「生活学校」は準備された。しかし、野村先生は史上最高といわれる教師である。私もプロレタリア文化連盟の文化賞候補になる実践をした。やらずんばあるべからずである。

(つづく)