Vol.64 掲載 1985.7
訪中余話
 戸塚 廉 掛川市家代
戦争中から中国民衆の心の美しさに心を動かされ、ぜひとももう一度訪ねたかった願いがかなって、うれしくて、この喜びを早く伝えたい思いにかられ、帰るとすぐに十月の新聞を作った。「太平洋と中国大陸をみる」という見出しで四面全体にのせて終わるつもりだったが、香港までで終わってしまった。仕方がないから十一月号につづけて「なつかしの中国を歩く」を作った。

印刷所に渡すと、暁庄研究の世界的な権威の斎藤秋男さんから「十日後に陶行知の生まれた町で国際的な学会が開かれる、校正刷りでもいいから暁庄の載っているのを送ってほしい」という電話が来た。すぐに静岡の印刷所にかけつけて、十一月号を先に組ませ、初校だけやって百部ほど仮刷りを送った。おやこ新聞が世界の代表的な陶行知学者に渡されたわけである。

出来上がった新聞各五十部くらいと、中国訪問の写真、陶行知記念館になかった私の著書を暁庄師範と江蘇省教育庁の朱子団氏通訳王鳴さんに送り、付属小学校の子どもには、“いたずら教室”を送った。日本語のできる人がいるのはわかっているが、どの教師にも子どもにも直接読んでもらうように、中国語まがいの手紙をかくのが楽しいので、荷物を送ったあとでも、十回くらいハガキを書いた。

暁庄師範の雑誌や陶行知文集、先年息子の陶宏さんにもらった児童文学書を読みたいので、参考書を問い合わせたら、双柿舎の菊池さんから会話の本と分厚い日韓辞典を、斎藤秋夫さんから中日辞典をいただいた。八十の手習いへの友情である。

暁庄師範の季慶亮先生から日本の各級学校の物理の教科書をほしいという手紙が来、湯翠英さんの手紙と付属小学校の子どもたちの詩数篇が贈られて来た。まちがえるとまずいので、詩と季さんの手紙は斎藤先生に訳してもらった。

子どもの詩は、陶行知をはじめ人民中国作りのためにたおれた志士の墓のある労山をたたえるものであった。教科書は、掛川と島田につとめる先生方に提供していただいたが、静岡大学の伊藤敬先生は。教育資料を全部提供して下さるというので、高校以下のものも全教科のものを揃えてあげることにした。

上海出港の日の朝の散歩で、美人の通訳の王鐘瑾さんが婚約者の蒋有健さんたちと歩いているのに会ったが、婚約者は日本の児童文学を研究しているというので“いたずら教室”を送ったらきれいな封筒に入った年賀状で“健康長寿、萬事如意”という祝詩を書いて送ってくれた。

七十七才を祝ってもらった。“※1”の曲はコピーを作って、まず高知に帰っている暁庄訪問の音楽教師の泉谷貴彦さんがピッコロとフルートで録音し、そのテープがつくと、掛川のくるみ幼稚園の副園長の小沢辰幸さんにピアノで録音してもらった。

小沢さんは音楽学校時代に掛川合唱団を作り、今五十才前後になっている人たちを指導して掛川の音楽運動を盛り上げてくれた人で、今も幼児音楽の全国的指導者である。小沢さんは、「そのうちに戸塚さんの屈折した人生をくわしく聞いて、この曲にふさわしい詩を作って、みんなで歌うようにしましょう。」という。

「今度は戸塚さんが呼びかけて、中国をゆっくり見る旅をやって下さい」という人もある。ほんとに出来ればいいですね。

(つづく)

※1の文字