Vol.63 掲載 1985.6
再見中国
 戸塚 廉 掛川市家代
南京から上海へ帰る夜汽車の弁当はサンドイッチ一個の他は月餅のようなものばかりで食事をした感じがしなかった。誰かがついでくれた茅台酒(マオタイシュ)をなめ、居ねむりをしながら、日本語のすごくうまい美人の通訳の王鐘瑾さんの話をきいていた。

上海についた時は、みんな疲れて、早く船に帰って寝たいというのに、あまり美人ではない方の通訳が強引に土産物専門の友誼商店にバスを廻らせた。十一時である。日本円を獲得して建設の助けにしようという政策に忠実な働き手なのであろう。

翌十四日は上海を出発して帰途につくので、恐らくは最後になるであろう上海を歩こうと、朝食後妻と船を下りた。ブロードウェイマンション、ガーデンブリッジは、今は中国名に変わっているが何回来ても飽きない。

中国紙幣が少し残っていたので、近くの友誼商店に行って、孫の注文の中国楽器や老酎、茅台酒、肉筆画の扇子や色紙を買い、妻は娘や自分の中国服地やハンカチなどを買う。ほんとにこれでいいのかと問い返すほど安い。

中国人の平均給料は五千円たらずで、それで生活できるように生活用品の値段が決められているのだ。昔、よく中国人が歩きながら食べていた西瓜や南瓜のタネ、そらまめなどの煎ったのを売っている小店があったので、五、六種類買ってみた。

出航前の一時間ほど、上海青年平和団体の代表三十人くらいが船に来て、サロンで日中平和の誓いの儀式があった。この旅の目的の中核の行事だから、大きく盛り上がるような演出を期待したが、彼我の誓いの文の朗読と少し固すぎる質疑がおこなわれただけであった。しかし、最後に上海一の老書家が、みんなの前で日中不戦の詩を大書したのは圧巻であった。

午後×時、日本丸は使命を終えて上海岸壁を離れた。岸壁には上海少年先鋒隊(ピオニール)が百メートルもの列をなし、中国楽器の歓送の曲を奏しつづけた。船が奏でる“蛍の光”とドラの音がそれに交錯した。

濁流の黄蒲江を下り、四十年前に帰国船に乗った呉淞港のあたりを眺め、やがて長江(揚子江)に入って行く。吃水から十数メートルも高い甲板に立っていても、対岸はただ薄墨色の一線だけで何も見えない。濁流は日が暮れてわからなくなるまで何時間も青くならなかった。地球の上にいるという実感がわいた。

沖縄か鹿児島かの島の間を抜け、足摺・室戸、熊野、知多、渥美、御前崎、伊豆と美しい眺めを満喫するものと期待したが、いずれも点滅する灯火とペチャンコの緑の連続であった。しかし、あのあたりに彼がいる、このあたりは誰と、数十人の読者の顔や名を思い浮かべる楽しみはつきなかった。

十六日の夜は最後の洋上平和大学が開かれ、法政大学の尾形憲さんと私が教科書を考える講座で話した。尾形さんは、敗戦直後に、戦前の民主教育運動者を中心に作ったすぐれた教科書がひどく非民主的なものに変えられた歴史を話し、私は、教科書は本でなくて自然であり社会である、教師は学校の先生だけでなく家族、友人皆教師であり、一番多く教える主任教授はアニキやアネキである、お乞食さんは社会を教える大先生だと話した。

十七日朝、後甲板で体操をしていると、真赤な太陽を背負った巨大な島が海の上に浮き上がった。幻覚かと驚くような大きさであった。伊豆の大島である。体操の人たちを入れてシャッターを切ったが、日の出の逆光で山は全然写らず、美人のKさんは全身真黒だった。

東京湾の左右の町々に住む人たちを思い浮かべながら北上、双柿舎出版の人たちに迎えられて晴海港に着いた。