Vol.62 掲載 1985.5
豊かな貧乏
 戸塚 廉 掛川市家代
暁庄師範(ほうそうしはん)は私に驚くべき贈物をしてくれた。その一つは小さな美しい貝がらで描いた中国の風景の額である。もう一つは、私の喜寿七十七才にちなんで音楽主任の費承鏗先生作曲の、七拍子の“※1”という曲である。詩を贈るということは聞いたことがあるが、曲を贈るということは聞いたことがない。

どうしてこんなに手厚い歓迎をしてくれるのだろう。私が彼等に何をしたというのか。ちょうど五十年前に、創立当時のこの学校に学び、陶行知校長と共に蒋介石に襲撃されて日本に亡命した学生たちと交流し、その後東京上海間で民主教育の雑誌や書物を交換したにすぎない。私たち自身が政府に圧迫され、投獄されていた時代のこととて、何の援助も出来ず、やがて日中戦争で交流も杜絶えた。

しかし、今の暁庄の教師にしてみれば、学校創立の学長の迫害亡命時に、日本で交流のあった人たちの中で、今生きているのは戸塚だけだということになっている ─ その、いわば初代学長の親友の訪問である。

附属小学校の子どもたちが帰るので一しょに外に出て写真をとり、陶行知記念館の陶先生の像の前で記念撮影をした。

尿意を催したので一人の教師の住宅に案内されたが、ここで私はあらためて深い敬意を抱いた。その住宅の質素さ ─ というよりも貧しさに驚いたのである。居室は、あの、香港の引揚者の住宅で見たようなものであり、西洋式の便器のフタは釘が折れていたらしく、床にころげ落ちた。

あの高度な芸術を身につけ、立派な学問をおさめている教師が、この貧しさに堪えて祖国の建設に当たっているのである。

この中国の訪問の一行の中には、中国の建設の遅々としているのに意外の感をもった人もいるようであった。私たち以外にタクシーに乗っている人を見なかったし、オートバイも二台しか見ず、走るのはバスとトラックのみであったからである。

しかし、この学校の豊かさはどうだ。向こうの見えないほどの広い林があり、川が流れ、橋の上から、蓮の花の咲く大きな池が見える。そして、この高い精神と力をもった多数の教師を備えている国を建設遅々とあざけることが出来るだろうか。陶行知先生が自ら肥桶をかつぎ耕作したという畑は林の向こうにあるのだろう。校舎も見えず生徒の声も聞こえなかった。

待たせてあったタクシーで陶行知先生の墓所に向かった。学校から二十分くらい。建国にたおれた人々を葬る労山の中腹に写真のような門と墓碑があり、碑の後ろの二メートルほどの高さのコンクリートの台の上に、径三メートルの半球墳があった。珍しげに私たちを見に来た里の子どもと農夫を入れて写真をとった。

ホテルで昼食ののち、中山陵と南京大橋を見て、上海行きの汽車に乗る。

中山陵は封建制度の清王朝を倒して中華民国を作った革命の父孫中山(孫文)の墓である。
孫文の死後、蒋介石は孫文の教えに叛いて独裁者となり、日中戦争で共産軍のおかげで勝利の日を迎えたのに、戦後再び反共政策をとり敗北して台湾に逃亡して死んだ。人民中国は孫文を建国の父として崇めている。

南京大橋は二階建で、下は北京行きの列車が走り、上は車道と人道である。一番基本的なものには惜しみなく金をかけて建設の礎とする政治の姿だなと思った。

(つづく)

※1の文字