Vol.61 掲載 1985.4
暁庄師範訪問
 戸塚 廉 掛川市家代
朝食をすましてホテルの前の道路に出ると、毛沢東のような帽子をかぶった青い人民服の労働者が、銀輪をつらねて、北から南へ走っていた。四列くらいに並んで数百人。新しい中国を象徴する風景のようだった。

考えてみれば戦争中には上海でも南京でも中国人が自転車に乗ったのを見たことはなかったように思う。服装も男も女も膝下までとどく長袗というワンピースだった。それが今は男は人民服、女は日本人と同じようなワイシャツとズボンである。長袗は南京で一人しか見なかった。おばあちゃんだった。ひとり残らず働く人民になったからであろうか。でも冬になったら、昔のなつかしい綿入れの上着とズボン姿が見られるのであろう。

王鳴さんは八時十分前にやって来た。同行するおやこ新聞の読者の木村純子さん親子と小松宏晃、泉谷貴彦さんと私たちは早く食事を済まして玄関で出迎えたが、昨夜になって同行を申し出た青年が来ない。三十分もホテルの中を探したが見つからず、王鳴さんにおわびしてタクシー二台に乗る。

写真で見る万里の長城のような城壁の中央門を出ると、道路はひどくなり、やがて左折して舗装されていない村の道に入る。家はまばらになり、自動車はひどく揺れ、砂煙が上がる。左右は広大な畑でキュウリやトウモロコシがよく出来ている。放し飼いのニワトリが驚いてけたたましく鳴いて逃げて行く。小さな荷車をひいていくロバが珍しい。中国の農民を描いたパール・バックの小説“大地”を思い出す。

三十分くらいで吉祥村にある暁庄師範(ほうそうしはん)学校に着く。叶樹明校をはじめ男女数人の教師たちが迎えてくれる。女教師は朱子団さんと共に数年前から手紙を交換している湯翠英さんであった。

握手を交わすわきに移動黒板があって、四色くらいのチョークで、“熱烈歓迎、日本静岡県戸塚廉氏訪我校”と書いてある。

“校史館”と書かれた迎賓館で話し合う。校長さんの歓迎のことばを聞いて、実によく私のことを知っているのに驚く、私には今三つの祝うべきことがあるという。七十七才のめでたい長寿、五十年前に作った雑誌「生活学校」の三回めの復刻、三十数年作って来たおやこ新聞の縮刷版作りだという。

訪問者はそれぞれ自己紹介をし、同席した暁庄師範の教師と質疑応答を交わしたが、政府の政策と教育の実践は完全に一致しているものと信じて疑わない中国の教師たちに、憲法や法律は完全に民主主義なのに、政府とたたかっている日本の現実を納得させるのはむつかしかった。

男女五人の音楽教師のフエと独唱、女子生徒の舞踊、付属小学校児童十人ほどの合唱がおこなわれ、付属小の二人の子が、木村幸地、美穂子の兄妹に真紅の紅領布を結んでくれた。社会主義の国の赤いネクタイは、子どもの中のすぐれた活動家の少年先鋒隊(ソビエトではピオニール)だけに与えられるものなのである。

私は東京時代にも戦後にも、わりあい多くの一流芸術家の音楽や舞踊を見ているが、ここの教師や生徒の芸術的力量の高度なのに驚いた。日本の教育大学に果たしてこれだけのひとを揃えているだろうか。

しかももおう一つの驚きは、年配の女教師と付属小の子どもが日本語で日本の歌を歌ったことだ。感激した私たちは、静岡のわらべ歌「なわとび歌」その他を合唱してお返しにした。