Vol.60 掲載 1985.3
江南回顧
 戸塚 廉 掛川市家代
四十年前の上海駅は、乞食や浮浪児、時には行倒れの横たわっている、市内でも一番いやらし所であったが、今はそんなことは想像も出来ない清潔な普通の大きな駅である。しかし、国際都市の玄関にふさわし装飾的なものは何もなかった。

上海の軍事司令部には、東京、台湾、広東、シンガポール等から飛行機で運ばれる文章が全部集まるので、それを南京の総司令部や沿線部隊の書類を受け取って東京や外地の司令部に送り出すのが私たち文書班の仕事であった。そのため、交代で三日に一度は南京に通った。

上海駅のプラットフォームはいちじるしく低く、線路から十センチほどしかないので、重い荷物は船において来たのに、デッキに上がるのが大変であった。兵隊のころは、数倍も重い袋を数個も運んだのに、大変だったという記憶がないのは、若かったためであろう。

はじめて乗る軟席車は左右とも二人掛はだからこだまよりもゆったりしていた。昔乗った硬席車は板張りの腰掛けで、血のしたたりそうなブタの足をかつぎ、バタバタあばれるニワトリを何羽も編袋につめて南京に売りに行くものなど、さまざまな中国人がつめ込まれていておもしろかった、

軍事機密の文章を何百通も持って、刃もつけていない銃剣とタマのないピストルしか身につけていない兵士二人だから、もしこの中にゲリラ兵がいて私たちを襲撃したら一コロなのだが、ちっともそんな心配をしたことはなかった。

南京駅の二キロほど手前に来ると汽車は停車するかと思うほど徐行し、どの客室からも荷をかついだ中国人がバタバタととび下り、長い列をなして田んぼの畔を町の方へ歩いた。闇売りの荷物は軍警に没収されるので、機関手や車掌と組んでやり、物資の少ない南京に暴動などの起こらないように、日本軍も見ぬふりをしていたのであろう。


沿線の農家の白い壁と黒い瓦の家は昔と少しも変わらないが、昔はなかった工場や倉庫が建ち、新しい駅が四つくらいできていた。

南京駅で先乗りの青年に聞くと、暁圧師範との連絡がつかないという。私の日中両分の手紙を送ってあきらめようと思った。

南京駅前も中央道路もひどく暗かった。右に折れると、純農村の私の村より暗いほどの道をヘッドライトを消してその下の小さいライトだけでバスは走った。南京飯店で乗客が降りると、運転手は車内の電灯を全部消した。節電政策がキチンと守られているなと感じた。

南京飯店は南京一流の豪華ホテルで、私夫婦の客室は天皇の居室といってもおかしくない広さと調度の整えられたものであった。外貨かせぎのためだろうか。それにしてはめっぽう安い。

大食堂で南京青年組織の歓迎豪華パーティに出ていると私に来客だという。応接室に行くと、黒い人民服の年配の紳士と若い娘さんが立っていた。江蘇省教育庁の朱子団さんと通訳の王鳴さんである。聞いたような名だと思ったら、朱子団さんは、二年前にもらった江蘇省陶行知教育研究会からの手紙に名を連ねている一人であった。

明朝八時に王鳴さんを迎えによこしてくれるという。何という念の入った扱いだろう。南京着の時間もホテルの名も知らせられなかったのに。私の最大の心配事だった通訳まで用意してくれた。「まいったナ」と私は思った。

(つづく)