Vol.59 掲載 1985.2
上海の三時間
 戸塚 廉 掛川市家代
船室で手紙を訳す王麗文さん 上海岸壁でビオニルの歓迎
ガーデンブリッジにて 虹口公演の魯迅の彫像
ていねいな招待状をくれた南京の暁庄師範学校を訪ねても、通訳がなくてはどうにもならぬ。頭を痛くして通訳として来ている、中国生まれの帰化日本人の王麗文さんに中国文にしてもらい、日本文中国文をたくさんコピーして、先方に渡すことにした。

九日ひる一時。香港出航、十二日朝上海入校。畝で中国語日常会話の講座があったがあきらめる。

ここで南京、上海、杭州、金州、蘇州ゆきの五班にわかれ、南京と杭州ゆきの班はすぐに汽車にのることになっていたが、上海を全然見ないのは残念なので、午前だけ上海をまわることに変更する。

バスで兵隊のころに何十回もわたったガーデンブリッジという橋をわたり、川岸の公園で下りてしばらく川に沿っている高い建物や黄浦江を眺める。四十年前と全然変わっていないのにおどろく。バスでガーデンブリッジを引き返し、すぐわきのブロードウェイマンション(上海第一の大建築)の横を通って虹口(ほんきゅう)公園に行く。

道の途中に見える市民の家はむかしとおりの赤レンガと赤いかわらの小さい窓の家である。このあたりも、四十年前と変わっていない。虹口公園の広いのにおどろいた。私のいた兵営はここから四キロほどの所の軍司令部だったから、休みの日などは必ずここでバスを下り、この公園のところにあった上海神社を散歩して市内に行ったものだ。

今はもちろん上海神社はこわされているが、ここに、こんな大きな公園があったとは思われない。このあたりには、私の村から来た田宮清さんの家や西本願寺もあった。軍司令部の少年軍属に読ませる本をまとめて買ったので、このへんで書店を開いていた内山完造先生の所へもやって来た。

この公園の一番奥には中国革命の父孫文(孫中山)とならんで尊敬されている作家魯迅(ろじん)の銅像があるところを見ると、公園は戦後になって新しく作られたにちがいない。魯迅が好きだった私が、もし魯迅の銅像があると聞けば見に来ないはずはないし、魯迅と親しい友だちだった内山完造先生が私に話さなかったはずもない。

内山先生は戦後一度日本へ帰ったが、人民中国に招かれてまた中国に渡り、ここでなくなったから、この公園作りには内山先生も力をつくしただろう。それにしても、内山先生を記念する記念碑が元内山書店のところにあることを、中国人通訳からあとで聞いたが、見ることができなかった。公園にいる間に早く聞けばよかったのに、気がつかなかった私のトンマに腹が立つ。

私のいた司令部のあった五条ヶ辻方面へバスを走らせてもらう。美佳氏は鉄道ぞいの草原だった所に、トタン屋根の粗末な家がたち並んでいた。上海で働く人がふえ、そのために作ったものだろう。上海で変わったことといえば、それくらいのものであった。

南京路という上海第一の繁華街は相変わらずの人通りだった。静安寺路には、昔は東洋一の競馬場があったが、今はギャンブル全廃で人民公園になっていた。

私の作っていた雑誌「生活学校」と、陶行知先生のつくっていた雑誌「生活教育」が交換されたが、私の読者名簿には、静安寺路陶行知と書いてある。
ここでうまい中華料理を食べて、南京班は上海駅から特急の汽車にのった。
ピースボート’84(第2回)
1984.09.02-09.17
「過去の戦争を見つめ未来の平和を創る船旅」