Vol.58 掲載 1985.1
香港の二十四時間
 戸塚 廉 掛川市家代
九月八日十三時香港入港。ここはもちろん直接接岸できる。空も見えないほどの高層ビルの林立する港である。

ここの見学は、労働運動、女性解放運動、その他の五つの班にわかれておこなう。私は妻が同行しているし、私自身も子どもの問題に感心が深いので女性解放の班に参加することにした。

四十人くらいがほとんど女性。男の老人の中国語の通訳と、香港にいる日本商社の若い人が通訳についてくれた。ところが、香港に住む女性解放運動の団体の都合で討論会はおこなわれないことになり、その女性団体の人の案内で市内見学をすることになった。

まず行ったのは貧民窟という感じの海外引き揚げ者の居住地区であった。華僑で東南アジアなどで失敗したが、中国本土には帰りたくない人たちが香港に流れ込んでくる。それを収容する高層ビルのアパートは建設が間に合わないから、しばらくはこういう生活をしているという。道をへだてた西側には三十階近いあぱーとがたくさん立ち、どの窓からも、まるで釣竿のように物干竿を出しているのが珍しかった。

はたして待っていればあのようなアパートに入れるのか、それとも、空室はあってもはいることができない人たちなのではないか。すぐ目の前に中国人学校とカトリックの学校があるのに、われわれを珍しそうにハダカで集まってくる子どもたち、ローソクに火をつけて火遊びをしている子どもたちは、学校へも行っていないのではないか。

室内に便所はできないから、共同便所が所々にあった。へだてる板目が無く、しゃがんでいる人の顔が見えるしかけだったという。老人の一団と若い者と白髪のおばあさんの一団が屋外でマージャンをやっていた。

坂を上がって展望台から市内を見る。海抜三、四百メートルの山に囲まれた土地には、二十階三十階のビルが林立している。山の中腹にも幾層にもそういうビルの集団がある。地震がないので、こうして、日本の小さな町くらいの面積の所に六百万人が住んでいられるという。

外国の金持支配のイヤな所で、その反面人口の大部分の中国人はひどく貧乏で、不徳商人が多く、スリ、カッパライ。買物のおつりのごまかし、脅迫、売春等々、あらゆる悪の巣だという。高層住宅もヨーロッパ人のものは窓が開いていないが、中国人のものは窓が開いて、物干竿が窓からつき出ているので、冷房がないことがわかる。

ヨーロッパ人の心配は、あと十年にせまっている、香港の中国への返還の問題だ。このぼう大な財産をどうして本国に返そうかということだ。

中国料理のレストランで夕飯をとったが、東京の中華料理店の法がうまかった。時間が無くて予定した工場や保育所の見学は出来なかった。工場は一階から二十階までのほとんどに機械が動いている高層工場だということだった。

スリやゴマかしがいやなので、ここでは買物をしないことにして、香港ドルとの交換はやめ、サイフとカバンをしっかり持って、街頭にテーブルをおいて食事しているきたならしい夜店街を歩いた。
ピースボート’84(第2回)
1984.09.02-09.17
「過去の戦争を見つめ未来の平和を創る船旅」