Vol.55 掲載 1984.10
やせ細る児童の村
 戸塚 廉 掛川市家代
陶行知(とうぎょうち)先生
(1891年−1946年)
児童の村の教師になって五日めの昭和九年(1934年)四月九日、私たちは思いもよらぬ珍客の訪問を受けた。中国の革命的教育学者で詩人の陶行知先生の教え子葉維奏ら三人の亡命留学生である。

陶行知先生はアメリカで自由教育をしたのち、国立の南京東南大学の教授になるが、先進資本主義国の半植民地になっている中国を救うには農村に指導者を作らなくてはならないと感じて、南京の郊外に暁荘師範という自分の学校を作る。この学校では、校長自身が畑を耕し、肥桶をかつぐというものであった。開校は1927年、私が掛川第一小の教師になった昭和二年である。

当時中国を支配していた蒋介石は、中国民主革命の父孫文の開いた道にそむいて反動的な独裁政治をはじめていたから、人民を愛し民主主義を重んずる陶行知の学校が気に入らない。

しかし、陶先生に対する農民の信頼は厚い。暁荘師範には盗賊団とたたかうための銃がいくつか置いてあったが、蒋介石はそれを、政府への叛逆ののための武器だと称して、軍を向けて陶先生を暗殺しようとした。知らせるものがあり、先生は難をのがれて上海に逃げたが、学生たちは大量に殺された。上海には、中国政府の支配の及ばぬ租界(外国人居留地)がある。陶先生は、そこを根城にして、人民の教育をはじめた。

中国の人民はほとんどが文字を知らない。字が読めないから天下の大勢がわからず、自国のひどい運命もよくわからない。陶先生は、まず人民の文盲退治--識字運動をはじめた。

一番むつかしいのは母親に字を教えることであった。勉強する会を開いても、母親たちははずかしがってやって来ないのである。呼びに行っても逃げてしまう。ところが、街頭で字をおぼえた子どもが母親に教えると母は喜んで習うことがわかった。陶先生は喜んで、子どもたちを小先生と名づけた。

おとなの先生では数億の文盲の教育は何十年かかっても終わらない。しかし、子どもが先生となっておとなに教えれば、たちまち文盲はなくなるだろう。先生は子どもを組織し、紙がなければ地面や壁や割れた瓦をノートにし、棒きれや木炭をえんぴつとする大衆識字運動をひろげているという。

それを初めたのは一九三〇年であり、私が掛一小学校で牧沢伊平君、粂田秀一君、佐藤金一郎さんたちと耕作者運動をやって掛川警察署につかまり、山の上の雨桜小学校(今の桜木小学校)に追われた昭和五年と同じである。

私は、ほんとうの教育は、学校の子どもを教えるだけでなく、その学校の校区のおとなたちに真の教育をほどこして、家庭ぐるみ、村ぐるみで教育をするようにしなくてはダメだと思っていたので、まず教頭がたのまれて編集していた青年団報「雨桜の華」の編集をひきうけ、父が明治四十年代に作った雨桜青年図書館を自分の本数百冊をもちこんで再建し、受持の三年生以上の子どもたちを集めて、「お前たちは、今日から、おとなに本を読ませる小先生になってもらいたい」と話した。

おとなたちは小学校を卒業しても、新聞も雑誌もとらぬ無文化労働をつづけてテストすれば小学二年生くらいの実力しかないだろうと話した。子どもたちは、おとなの読書活動の組織者となり、雨桜→桜木村は「戦争中県下一の読書村」と県立図書館長が折紙をつける村になった。

陶先生と私は同じ年に警察に圧迫され、同じ小先生運動をしていたので葉維奏らの話を聞いて、私はいたく感動した。

実は、私はこの九月二日から平和運動として中国を訪問し、十三日には戦後に再建され五百人もの学生のいる学校になった陶行知先生の暁荘師範を訪ねることになっている。昭和十年(1935年)に創刊した私の雑誌「生活学校」は陶行知先生の雑誌「生活教育」と交換し、先生の著書を贈られ、私の本を贈り、暁荘師範にはそれらが展示されているのである。十月のこの欄には、その訪問記をのせることにしよう。