Vol.54 掲載 1984.9
やせ細る児童の村
 戸塚 廉 掛川市家代
掛一小高等科、昭和3年卒業の牧沢さんの愛弟子たち、横山栄治、石山辰蔵、石川照太郎の諸君の仲間たち。
昭和九年(1934年)四月五日は、天皇制教育に反逆する最悪の教師として、教師に対する極刑である教員免許状を剥奪された私が、真実の教育を志す者には最高の栄誉である児童の村小学校の講師になった記念の日である。

児童の村小学校は、同じ長崎東町二丁目に住んでいる教師でさえほとんど知らない。児童数五十人のミニ学校だが、国際新教育連盟という、世界の自由教育の団体に入っている学校や学者なら、フランスでもスイスでもアメリカでも、日本を代表する輝かしい自由学校として知られていた。

自由すぎて金持ちの後援者はなく、校長も主事も金持ちに頭を下げるのは大嫌いだから、貧乏学校としても世界一で、静岡で六十円とっていた私の給料はタッタ十五円だった。しかし、職員数は桜木の学校と同じ九人、校長、主事の他に、普通の教師が男三人女二人、春陽会会員の洋画家と院展落選の木彫家である。子ども五人に教師一人の割なのに、子どもの親は、天皇教育を毛嫌いする作家、評論家、画家のたぐいで、八円の月謝もとどこおりがちだから、給料が払えるはずがない。

教師の一人の鷲尾さんは、野村主事よりも有名だが、これは野村さんを追い出して児童の村を乗っとるために校長派閥から派遣されている人、画家の近藤さんは、何とも気まぐれで、ゾッコン惚れこんで一年たらずやってみたが、二月ころから無断欠勤数知れず。新学年は気が変わったが、また連続欠勤。私に社会を教えてくれた恩人の牧沢さんは一年たたぬうちに意欲を失っている。極度に鋭い感性の持主の彼は、期待した本物の自由がないことに失望しはじめていた。

鷲尾さんが児童の村を乗取ろうというのは、こういうことである。

野口校長は、今野球のうまい城西学園の前身、城西学園中学校の校長で、弟学校の児童の村小学校の校長でもあった。彼は明治時代から姫路師範の名校長として、政府の軍国主義教育に反対し、思い切った自由教育をやった。だから児童の村を作った大正十三年(1924年)のころには、彼の教え子で、有名な教育学者や教師がたくさんいた。

しかし、徹底した自由人の彼は児童の村の教師には自分の教え子は一人も入れず、日本一の教師を求めて、野村芳兵衛を岐阜から、峯地光重を鳥取から、平田のぶを広島から迎え、主事としては奈良から志垣寛をよんだ。

姫路の同窓生は、それが気に食わない。志垣が平田と恋愛して退職すると、ドイツに留学した教育学者土井竹治を主事に押し込んだが、野村芳兵衛に対する父母の信頼が厚く、天皇主義の土井は、十人ほどの子どもを引きつれて退却し、啓明学園を作る。野口援太郎はその校長にもなった。

二番バッターが鷲尾さんだが、この人はそんな争いに巻き込まれるのはきらいな好好爺(こうこうや)なので自分でやめると言い出し、その代わりに私が入ることになったのである。

だが、姫路派の抵抗は強く、鷲尾さんは八月まで不本意な争いの中におかれ、姫路派の家の子ども十人ほどと共に。目白学園を作り、やがて、土井さんと合流して「東京児童の村小学校」を作る。校長はベラボウ自由人野口援太郎であある。

私は世界一の自由学校とはこんなものかとあきれ返り、子どもがへってますます貧乏になる児童の村を本物の民主学校にする決意を固めた。