Vol.53 掲載 1984.8
青い鳥をさがす牧沢伊平
 戸塚 廉 掛川市家代
掛一小高等科、昭和3年卒業の牧沢さんの愛弟子たち、横山栄治、石山辰蔵、石川照太郎の諸君の仲間たち。
奥山半僧坊のある奥山村に生まれ、大正十四年(1925年)に封建教師養成所の静岡師範学校に変革ののろしをあげ、西南郷小学校と掛川第一小学校で、今は七十才前後になった人たちに図太い土性骨をたたき込み、昭和五年(1930年)にはミニ新聞「耕作者」で小笠掛川の教師たちにプロレタリア文化と抵抗の精神を吹き入れ、そのために、粂田英一君や私と共に掛川警察署に一晩泊められたものの、その後私たちがひきついで、日本一と評価された教育変革運動の基礎を作った巨人牧沢伊平君は、今、静岡市外の霊園で、日本の暗い時代に光を掲げた数十名の人たちと共に静かに眠っている。

昭和八年(1933年)の春、非合法教育運動でつかまってクビになり、秋になって、私が児童の村のまわりにチョロチョロしはじめたころには、牧沢君はもうソロソロ児童の村に失望しはじめていただろうと私には思われる。

なぜかというと、牧沢君がそれまでに六十円近い給料をとっていた静岡県訓導をやめて、三十円しかくれない児童の村にとび込んだ時は、彼が教師になりたての大正十五年ころに見た完全自由の児童の村はすでになく、実質上校長同様だった主事の野村芳兵衛先生は、子どもたちが本能にまかせて勝手に行動する完全自由ではなくて、自由を最大限に認めはするが、子どもたちの集団の協議による民主自治で学校を経営していたからである。

おまけに、貧乏だがみんなで平等に分け合うという給料も、野村先生は七十円、古参の小林かねよさんは五十円であり、二人とも、無料の住宅に住み、原稿料収入もあったが、何か理由があって、一軒空き家の住宅があるのに、牧沢君には貸してくれなかった。経済的条件のちがいよりも、野村先生に対する人間としての信頼が崩れるのをどうしょうもなかった。

昭和九年一月下旬の私に日記は、牧沢君が消極的になったのを嘆き、六月末には、牧沢君は、四月からこの学校の講師になった私に退職したいと相談に来ている。それを慰留し、学校乗取り陰謀に攻め立てられてノイローゼになる野村主事を励まし。学校乗取り派を野放しにしている野口校長を難詰するなど、田舎者の校務主任の私は無骨な工作をしながら、動揺する教師たちと伊香保旅行をしたり、全校生徒の参加する千葉の保田の夏の学校で喜ばせたりしながら、どうにか牧沢君の退陣の引き止めに努力する。

しかし、児童の村乗っとり派に擁立されている有力教師は、八月末に生徒の四分の一をひきつれて別の学校を作る、牧沢君は九月から出勤しない。子どもの授業料だけで経営する私立学校だから、子どもの大量退学は一大事である。障害児の親の百万長者に特別寄付を仰ぐために野村先生の方針が動揺し、教師たちが反発する。給料は安くても教師をしたい教育力の高い教師を集めようとすると、私の仲間の左翼運動でクビになったものを集めることになり、学務局から警戒される。そのジレンマが野村先生を苦しめ、先生はとても望みのない牧沢君の引き止めに執着する。

十月四日にようやく退職は実現し、その間に再婚した牧沢君は、先妻の子のりつ子さんと三人で暮らし、中国人の家庭教師になって日本語を教えたり、東京市立校の教師になって間もなく肺結核が再発して、清瀬療養所に入院したりする。

私が児童の村ではじめた「生活学校」という雑誌のため捕らえられて三年近く刑務所に入れられ、昭和十七年(1942年)に出所してまもなく兵隊にとられた時は、内田村出身の水野静雄さんと共に東京駅で送ってくれたが、二十一年に帰国したら、一年ほど前になくなったということであった。永遠の自由をもたらす青い鳥は、牧沢君の所へも舞って来なかった。