Vol.52 掲載 1984.7
気まぐれ芸術家と四ヶ月
 戸塚 廉 掛川市家代
絵は長谷川豊雄さんが雑誌「生活学校」にかいたカット。
静岡県の田舎に住んでいては、本物の芸術家に会うことはまったになかった。祖父も父も、村にはまれな芸術愛好家なのに、父の湯人の名古屋に住む日本画家の若山岳仙が父のつとめる原川銀行の近くの料理店の鳥居屋で山水画をかいているのをそばで見たことがあるが、音楽や歌舞伎や新劇は見物席で、遠くから眺めただけであった。

だから、児童の村で、春陽会の洋画家の近藤晴彦とか、木彫家の長谷川豊雄と毎日のように話し合えるのは、わたしにとっては光栄なことであった。その長谷川さんがわたしと同じ部屋に住み、わたしをモデルにして彫像を作るという。何という喜びだ。

酒屋の三畳間に半年を暮らした身にはm今度の八畳はのびのびと広かった。四日めに移って来た長谷川さんと、池袋に出て三十銭の定食を食べ、ビールで乾杯する。三十銭は平常の食事の二倍のおごりであり、生ビールを自分のゼニで飲むのははじめてであった。別れて家庭教師をすまし、小砂丘家へ行っている長谷川さんを呼びに行って「しばらくのむ」と日記に書いてある。

「綴方生活」発行所は、小砂丘さんの仕事場にいつも一升びんがおいてある。長谷川さんはわたしと同じ年だが、小砂丘さんにおとらぬ酒好きで、後にはそのことでふりまわされるのだが、まだこの日には芸術家の酒好きに好意を示しているような書きぶりである。

長谷川さんは作品を売って食っていることと思っていたら、小さな木切れと刃物をもって来て、彫刻刀の柄をつけはじめた。ハハア彫刻家というものは自分で道具も作るのかと感心したが、それは自分の仕事のためではなくて、美術商からもらってきた内職であった。どのくらいのお金になるのか知らないが、夜おそくなって帰ってくる彼は、いつも酒臭く、食事やお茶を呑みに行こうと誘うときは、必ずわたしに支払わせるようになり、彫刻刀を磨くグラインダーを買わなくてはいけないから金を貸してくれというようになった。

一緒に暮らすようになって十日目の日記には、児童の村の教師一同で浅草へエノケンを見に行くが、「みんなの呑むのを冷やかしに見る」と日記に書いている。同居二週間めから、早朝に起きて、児童の村の教室でわたしの首を作りはじめる。木彫ではなくて粘土で作って石膏で固める彫塑である。板に四十センチほどの棒を立てた台に粘土をくっつけて、大よその卵形のものを作ると、あとは掌にのばした粘土の小片を、その原型に向かって力一パイ投げつける。

いや驚いてしまった。はじめは平気だったが、ある程度自分らしい形になって来ると、自分の顔に粘土をたたきつけられるような感じがした。酒飲みのタカリ屋の豊雄さんが、その時間だけは尊敬すべき芸術家になった。

しかし、月二十八円の収入のうち八円くらい父に送ろうとしている孝行息子のわたしには、とてもこの酒豪の芸術家を満足させる力はない。二ヶ月余の同居ののち、児童の村の正式講師となる日の前日はついに別居する。

別々の下宿から、早朝に学校に来て、粘土の首作りを続行するが、「長谷川氏来たらず」の日記がしばしばあるのは、他の日にはやって来たのであろう。五月の十二日の日記に「彫刻続行」とあってあとはどこにもないのは、これからしばらくやり、またやらない日が続いて、粘土が乾いてしまい、ついに放棄してしまったのだ。しろうと目には立派にわたしの顔になっていたのに残念なことであった。

長谷川さんは彫刻家としてはモノにならなかったのか、院展などにつれていって師匠や兄弟の子の作品を自慢し、姉の息子(小杉放庵の子)が三人児童の村に来ていたので、その家に教師たちを招待して、自分でテンプラを揚げて食わせたが、その腕前はしろうとハダシであった。

東大に戸塚廉文庫ができたのと、わたしの作った雑誌「生活学校」が戦後に復刻されたお祝いの会が東大でおこなわれた時に顔を出したが、彫刻では無くて、立教大学の女子寮の舎監で食っているといい、二、三年後に亡くなった。