Vol.51 掲載 1984.6
月収二十八円の豪華な生活
 戸塚 廉 掛川市家代
池袋児童の村の教師たち(1935年4月)
前列左より、小林かねよ、村松元
後列左より、戸塚哲郎、松本寛郎、戸塚廉、牧沢伊平、長谷川豊雄、野村芳兵衛
後になって、歴史を作ったと言われるような事件や、そこに登場する人間も、そのことの進行している過程では、そんな大それたことをやろうとか、やっているなどと考えているわけではない。多少風変わりな人間たちが集まって、世間ていなどあまり気にしないで、何かに熱中しうまくいけばヒトに認められてほめられたり、運がよければいくらか金になったりするが、大方はヒトの知らぬ間に消えてしまう。

「生活学校」は、その消えてしまったものの一つだが、消えて三年目に、編集発行者の私をはじめ二百人もの教師や学者が警察につかまり司法や行政の処分を受け、戦後には三回も復刻されて、今もって戦前の読者の何十倍もの若い教師や研究者に使われるという、教育雑誌としては類のないことになったのだから、まあ「歴史を作った」といわれる仕事ではあった。

昭和九年(1934年)の日記の末尾に、その月の収入が合計二十八円と書き、内訳は児童の村から五円、園田氏より十円(家庭教師)、婦人セツルメント五円、原稿料八円とある。児童の村の五円は講演で出張する野村先生や原因不明で休む近藤画伯の授業を代わってしたり、学校通信の「村だより」の原紙切りをしたり、用紙だけ買ってきて卒業証書を書いたり、児童劇公演の小道具作りなど手伝ったりしたことに対する謝礼である。

半日は読書して、あと半日は児童の村で何か手伝っていたのだから、五円はいかにも安い。よそでこのくらい働いたら月三十円くらいはもらえただろう。しかし、野村先生が心にかけて、私の生活を保障してやろうとして乏しい校費から出してくれるのだからありがたい。

園田氏というのは児童の村六年生への家庭教師二軒の一つである。お父さんは農林省の技師である。婦人セツルメントは、著名な婦人運動家の奥むめおさんが作っている、婦人だけでやっている社会事業の家である。

クビになってはじめて上京した時、ここの雑誌「婦人運動」に、私の家の子供クラブの話を書いた関係で、野村先生を通して、あの文の筆者にセツルメントの託児所の保母さんを指導してもらいたいと言って来たのである。

一週間に一回、長崎町から本所まで出かけて、子どもたちに壁新聞づくりを教え、そのあとで保母さんに話をする。一回一円二十五銭と安いが、児童の村の子どもと比べて労働者の子どもたちは、桜木の子どもと共通の野性をもっているのがうれしかった。

原稿料は野村先生が小学館の雑誌に連載している修身書の教材解説を私に書かせてくれたのである。一介の田舎教師失業者に全国何万の教師の使う授業法を書かせてくれる野村先生の信頼がうれしい。免許状を奪われてもうコンリンザイ(金輪際)教師はやれないと思っていたのに、いささかでも学校に影響を及ぼすことができる。感激して心をこめて書いた。これは二日かかれば書き上げられたから、当時小笠郡で最高給の掛一小の校長の月給、月百二十円に相当する日当であった。

半年前の日記にあるように、下宿代、食事、電車賃、映画等生活費十五円、古本購入費五円くらいでくらしていて、経済的にも精神的にも打撃を与えた父にいくらかの送金をしている。親孝行ものである。

理想を求めて児童の村に集まって来た、「ダンゴより花」と考える連中だけに、地上にないような妙なイザコザが絶えずあった。次号には、それを書くことにしよう。
(つづく)