Vol.50 掲載 1984.5
「生活学校」への胎動
 戸塚 廉 掛川市家代
「綴方生活」創刊第二号
昭和4年11月1日東京文園社発行
日本の教育運動の中で、初めて貧しい勤労者の立場に立った雑誌。小砂丘(ささおか)忠義、上田庄三郎(耕一郎の父)、野村芳兵衛が実質的な運動者であった。
昭和九年(1934年)一月二十一日の日記には、私の一生に大きな意味をもつことが記されている。この日、武蔵野線(今は西武池袋線)の椎名駅に近い三河屋酒店の、一年中陽のあたらない二階裏側の三畳間を引き払って、長崎東町三丁目の二階八畳間に移り、児童の村の木彫家の長谷川豊雄君と同居する。

牧沢さんと彼の新婚ホヤホヤの妻君八重子さん、児童の村の宏子、レーレー、オップの須藤三姉妹がにぎやかに手伝ってくれる。全財産をリヤカーに積んで一キロを三回運ぶ。「凍っているうちにやってしまおうと思ったが出来ず、道がぬかって大分難儀をした」となつかしいことが書いてある。まだ立教大学裏の道や、椎名町駅の踏切から、今もある城西学園の前を通って板橋の方へ抜ける道路は舗装されていなかったのだ。

「五年生のデッポ(須藤出穂)と六年生のソンチャン(園田淳)が遊びに来て、チーオンボーナンで帰る」と書いてある。非合法運動のころ、プロレタリアエスペラント講座をかじって知った「さよなら」である。

牧沢さんと水野静雄さんが来る。水野氏は内田村の生まれ、静岡と小笠郡大渕小学校で美しい詩を作り、作秋東京の教師になった全国的に有名な綴方教師、牧沢の親友、掛川中では、私の叔父・猛や原田孝一郎・窪川鶴次郎と同級生。

その日記のあとに「なぜ牧はあんなに消極的になったのだろう」と書いている。鋭い感覚と妥協のできぬ性格をもった天才牧沢伊平は、児童の村へ来て十か月しかたたないのに、すでに児童の村に失望しはじめたのである。牧沢さんの児童の村離れはこの年の秋になって決定的になるのだが、彼の気持ちの変化の真相は私にはわからない。鈍感で、これから児童の村に全力を尽くそうと張り切っているわたしの志を挫けさせまいとの、彼の配慮であったのかも知れない。

この日の、つづく日記が重要である。
「野村氏を訪ねて、小砂丘氏と『綴方生活』と、自分と『児童の村』との問題について話す。『綴方生活』の事務員として働くのならやってもいい。しかし、自分の『仕事』として、『綴方生活』を自分の文化運動の足場とする気はしない。又、今井や井野川や等々の綴方生活系のいや味のある文学青年達と協力する意志は毛頭ない…。二食でヒコヒコしてもいいから読書の時間をつぶされずにいたい…と。小砂丘氏にこんなはっきりした事はいわなかったが…。『児童の村』をいいものにすること。これに専念しよう。」

この日記は少し説明しなくては意味がよくわからないだろう。
私が「二食でヒコヒコして読書」しているのを見て、野村先生が「綴方生活」を手伝わせていくらかでも生活費をかせがせようとした。しかし、一方では野村先生はぼくに児童の村の一学級を受持たせようとか「児童の村」という雑誌を創刊して、それを私にやらせようとも言っている。ここで小砂丘さんの「綴方生活」の社員になったら児童の村入りも児童の村の雑誌作りもできなくなると、私は早とちりをしたのである。

「綴方生活」は昭和四年(1929年)に、児童の村をめぐる教育運動者によって創刊されたが、昭和五年に主幹で児童の村創立者の独りの志垣寛とその子分が分裂脱退、昭和五年八月からはじまり、のちに非合法運動になった新興教育運動で、強力な支持者だった私たち血の気の多い読者が多数クビになる。

昭和六年四月からはじまった雑誌「教育・国語教育」が資本力豊かな発行所から、しかも左翼的な論客の文章を多くのせて創刊されたので、(「綴方生活」は)ますます読者が減る。今井、井野川、長谷健その他の東京の綴方人が口を出し書きたいことを書いて利用するが金は出さず、印刷費が払えないので雑誌「綴方生活」も定期的には出せないという時期であった。

日に日に強化されるファシズムの進行の中で、いくらかでも抵抗と創造ができるのは、マルキシズムにも深い理解をもち、教育の理論と実践で私の魂をゆさぶり、桜木の山の学校での“いたずら教室”を実践させた野村芳兵衛の雑誌を日本全国に広める雑誌作り以外にないと思ったのである。