Vol.49 掲載 1984.4
道は人の数ほど
 戸塚 廉 掛川市家代
文部省の教科書は簡単にやり、文学作品や科学物語を写して教科書にした。
集団主義の共同学習の班(組といった)。
野球の試合の絵。建物は雨桜村の役場。
絵は野村芳兵衛の集団主義と、プロレタリア美術運動の影響で集団としての活動を画かせた“いたずら教室”の活動。(戸塚廉画)
「遂に終列車に乗ってしまった。例のルーズなあわて方をして、何か悲しみのようなものが胸の中にある。それこそ、何と説明のしようもない悲しみだ。人間というものは、突然はげしい変化にあうと、無闇に泣けるようだが、それ程でもない変化だったのに。純坊と豊坊(二人とも野村芳兵衛先生の息子)牧沢氏とで、児童の村の生徒募集のビラを池袋駅で配って、野村さんで、鴨と芋汁のご馳走になり、帰るまでは何も考えなかった。」

「帰り道で、今からでも行けば行けると考えた。牧沢氏に話した時は『今からでも行けるね』と言っただけだが、『行こうか、どうしようか』という程度に発展していた。『いきたまえ』という牧沢氏の言いに九分は決まった。自転車を借りて駅まで荷物をはこんで帰ったら、十時半をすぎていた。円タクを拾った時はドキドキするほどあわてていた。『十五分で行きますよ』といった運転手の落ち着いた声は皮肉に痛かった。」

これは昭和八年(1933年)十二月二十七日の日記である。クビになって上京して四か月、東京に定着する場が出来かけた二十六才の私の中に、こんなセンチメンタルな望郷の念のあったことを記録している。

昭和九年の元日から、“いたずら教室”の子どもがやってくる。掛川第一小で最初に教えた子どもたちが同窓会を開いてよんでくれる。三原屋の俊ちゃん、三到堂の日支ちゃんのクラスである。掛下喜代、小出静男、石田宇基雄の三君の名が日記にあるが、三人ともすでに故人である。アカだ非国民だと静岡新報でさんざんたたからたのに、同級会に集まった二十人あまりが温かく慰めてくれた。

七日には東京へ送る書物や自転車の荷造り、牧沢君の勤務していた西南郷小学校と、彼の住んでいた紺屋町の借家の写真をとる。

非合法運動を共にした小沢英雄、石川武雄、小柳津けい(さんずいに幸)雄、山崎菊丸、山崎吉郎などの青年農民諸君と語る。彼らは逮捕されなかったから、警察の目をはばかる必要はなかった。

帰京の汽車には、教え子の掛下喜代、斎藤義雄の両君が見送りに来てくれ、非合法運動に参加してクビになって上京している高塚けいさん、松浦としさんと同車だった。

児童の村では、野村、小林、近藤の三先生がそれぞれ児童劇を作り、児童劇協会や東京学校劇協会の公演会に出演するのでその脚本を印刷したり、小道具作りを手伝い、その雰囲気の中でも私も“いたずら教室”の子供クラブを劇に作ってみたりする。

児童の村小学校は、大正デモクラシーの流れの中で、鈴木三重吉の芸術主義的な綴方教育、山本鼎の自由画運動、北原白秋らの自由詩や童謡の運動などの盛んな時代に、それらとの深い交流の中で創立された学校であるから、芸術教育には力を入れていた。

私は小学時代に教師に叱られるほど立川文庫に読みふけり、中学時代は文学に熱中、教師になるとまず文学教育から初め、日記に「おれは文学をやろうか音楽をやろうか絵をやろうか」と書いたくらい芸術好みだったから、まだ児童の村の教師になると決まったわけでもないのに、給料なんかくれなくてもかまわないから、露天の夜店で古本屋をやっても、この学校で働こうと思い定める。

一月十四日には新劇祭がおこなわれ、「父帰る」「玄朴と長英」「嬰児殺し」などを築地小劇場で見る。近藤画伯や牧沢君とともに音楽喫茶の店でしばしば古典音楽を聞く。

女教師の小林かねよさんが、チャイコフスキーの「悲愴」のレコードを買った時は、彼女の住宅にみんな集まって聞く。すごい名曲というのにちっとも感動しないので、おれは音楽はダメかなと悲観したりする。しかし、一月十九日音楽喫茶のアネモネでベートーベンとモーツァルトを聞いて深く感動したので、その日の日記には、「文化運動に対しての自分の力を信ずる」と書き、「道には人の数ほどある。」と言う、エレンブルグの言葉を思い出して「いい言葉だ」と書いている。