Vol.48 掲載 1984.3
父恩と友情に生きる
 戸塚 廉 掛川市家代
当時の我が家
昭和八年(1933年)十月六日の日記には父から十五円送ってきた、十円頼んでやったのに、五円余分に入れ、しかも、家になっている次郎柿を一箱送ってくれたと感激して書いている。前回のハラペコの日記は、このあと一週間めのものだから、父からの送金は極度に大事に使っているわけだ。次郎柿は児童の村の教師や小砂丘さんに配る。

七日は子どもと上野の科学博物館に行き、放課後は「僕らの研究会」を開いて牧沢がスピノザを、近藤、長谷川が芸術鑑賞論を、野村が教育理論をやったと書いてある。九日に、岩波講座の「世界思潮」の人物研究で、仏陀、ソクラテス、ブルーノを読んでいるのは次回の研究会への準備であろう。

八日は家代の家の、子供クラブの生活を油絵でかいている。九日の日記に「部屋代一円十六銭」とあるのは、下宿していた忠師館が差押えを食って、帰ったら私の荷物は屋外にほおり出されており、急に近くの酒屋さんの二階の三畳間に移ったためである。三畳間で月三円の日割り計算である。

十月十三日は、私の生涯の記念すべき日の一つになった。それは、牧沢さんの下宿に野村芳兵衛先生がやってきて、夜半十二時まで話す。
「児童の村」という雑誌を来年四月から発行しそれを私にやらせる。鷲尾という先生がやめることになっているから、そうしたら私に一学級持たせるというのである。

この日は静岡から、私や村松元さんと一しょにクビになった榛葉じゅん(かねへんに享)一さんと、私の教え子の小柳津清君が訪ね来ている。直、書き落としたが、村松元さんのことは、昭和八年九月四日に「児童の村入り可能性あり」と書いてあり、九月か十月に入ったはずである。十月十四日は、村松さんのお父さんと、神宮外苑の青年館で新劇を見たと書いてある。

牧沢さんは再婚して十二月四日に新夫人を連れ、来る。十月二十七日の日記には、父から、「哲郎の卒業の日は、経済的に悲しい日だ」という手紙が来た。祖父の政治活動や父の銀行業務の手ちがいでできた借金を背負い、長男である私の公立教師の給料に期待したが、それも空しくなり、弟哲郎の卒業を期に、残った田畑も手放そうというのであろう。

父に心配をかけず、少しでも仕送りをするようになろうと、「古本の夜店でもやろうか、養鶏でもやろうか、野村先生の知人の店番をやろうか」などと考え、リアリストの弟に「あんまりロマンチックでもないぜ、あわてることはないさ」とひやかされる。

このころ集中的に文学を読む。木村毅の「小説研究十六講」を読み、牧沢さんと、百五十枚くらいの小説を書こうと約束する。

掛川から中村信一さんがやって来て、佐藤金一郎さんと二人で生活費カンパ五円を下さる。中村さんを案内して、帝展、築地小劇場などを見せ、野村、小砂丘の旧知の間がらなので、児童の村一同で夕食を共にしたと書いてある。

十二月二日から、三畳間で火鉢に炭火をおこし、メシ、ミソシルを作って自炊をはじめる。八日、野村先生が、児童の村に研究科を作って私を主任にするという。この日、農林省技師の息子園田淳君の家庭教師の口がきまり、近所にひっこして来た須藤出穂も遊びに来て共に勉強する。どちらも児童の村の子どもである。

十三日、児童の村の忘年会。もはや職員気どりで、ハシゴでのみ歩く。二十七日、急に帰りたくなって、はじめての帰郷。東京-掛川の鈍行で三円三十銭。私と共に掛川で非合法運動をやった学生の宮浦寛一(桜井義之さんの兄)と松井秀吉君は、その後も運動をつづけ今は静岡刑務所にいると聞く。