Vol.47 掲載 1984.2
自由自在の失業者
 戸塚 廉 掛川市家代
児童の村でかいた家代の子どもクラブの思い出の絵。
失業なんて、こんなに自由なものとは知らなかった。

朝寝夜ふかし自由自在、食事の時間も勝手放題。読みたいときに読み、読み終わった本は古本屋へ持っていけば買った値段の三割引きくらいで買ってくれるので少し足して次の本を買う。少しくたびれた本なら二十銭か三十銭出せば、定価一円二円の一流価値のものが手に入る。

映画を見たければ、「モナリザの失踪」とか「制服の虜女」「パリの屋根の下」などという名画を十銭で見せる名画劇場がある。築地小劇場で、ハウプトマンの「織工」をやる、「ドンキホーテ」をやる。新劇その他の進歩的な芸術団体の創建のころは、芸術教育中心の児童の村は、その催しのたびに、全校生徒をつれていったから、またどうにか形をかえて続けているプロレタリア文化団体の催しには児童の村へは、何枚かの招待券が贈られて来た。

職員みんなで見に行くこともあれば、時間の自由な私が、野村先生の息子の純坊や、その同級生の須藤出穂らをつれていくこともあった。早稲田大学の演劇博物館でやる児童劇協会の集会には、東京中の児童芸術関係者が集まる。劇団東童、学校劇協会などの、食うや食わずで劇団を守っている連中の苦労話を、わが事のように身をつまされて聞く。

児童の村の講師には、洋画家の近藤晴彦さん、木彫家の長谷川豊雄さんがいるし、長谷川さんの奥さんの姉さんは、横山大観級の日本画家の小杉放庵(洋画家の小杉未醒と同じ人)の外妻でありその息子が三人とも児童の村に来ているので、上野の美術館で帝展、二科展、春陽会展などが開かれている度に見に行ける。

プロレタリア作家の松田解子さんの子どもも二人児童の村に来ていた。作品が売れず、貧乏この上ない松田さんは、夫君が、児童の村の万事世話役の須藤紋一さんの作る雑誌を編集しているので、須藤さんの計らいで、月謝免除で来ていた。その代わり松田さんの仲間の、同じく食うや食わずのプロレタリア文学者たちと話し合うこともできた。

公立小学校という、決まった空間の中で、「先生さま」という世間の目で見られ、そのころ掛川にはじめて出来たカフェに入ることもはばかっていた教師と比べて(もっとも、私と牧沢伊平さんは、掛川の町の好意的な目の中で大いに自由を楽しんだ方だが)、東京の、しかも、完全自由をかかげている児童の村小学校の何という自由なことであろうか。

日本一道徳教育の指導者として、北海道でも満州にでも講演にまねかれる野村芳兵衛先生は、今共産党で牛耳っている上田耕一郎や不破哲三のおやじの上田庄三郎さんや、綴方教育の神様のような小砂丘忠義さんと大みそかに一しょに飲んで立小便をしたら、それが交番の横だったので、おまわりさんにどなっれてもジャージャーやり、「とちゅうで小便がやめられるか」とたんかいを切って、ついにブタ箱に入れられた。翌日は児童の村でも新年の式があるので、野村先生だけあやまって出してもらったという。

それほどの事件はなかったが、野村、上田、小砂丘とともに、牧沢以下の児童の村教師が、私も加えて談笑しながら、池袋、新宿まで、往復十五キロも歩き、私と同じ非合法運動でクビになって、高田馬場でオデンと焼鳥の飲み屋をやっている綴方教師の城戸薫の店に寄り、夜道を大声で歌って帰るような乱行が、教師たち挙げての猛烈勉強と並んで、私の日記を飾っている。
(つづく)