Vol.46 掲載 1984.1
失業者の日記
 戸塚 廉 掛川市家代
近藤晴彦画伯と一緒にかいた長崎町風景(長崎町は当時東京府北豊島郡にあった町)
日記によると、九月十四日に非合法から逃げ出したらしく、十四日から二十二日までの記録は欠落しており、二十三日は「牧と『長崎通信』を作る。野村氏より家庭教師の話あり、高橋という人、五円」と書いてある。一日おきに女学校一年の子をお教えて月五円の報酬である。

「牧」とはこの春から児童の村の教師になっている牧沢伊平さん。掛川では緑湯の中村盛次さん、大石種苗店の義作さん、森平の兼治さん、桜井義之さん、なくなった石山辰蔵、石川照太郎の諸君の先生である。「野村氏」とは児童の村小学校の主事の野村芳兵衛先生である。

「長崎通信」というのは、三月に別れた静岡県の教え子に、近況をしらせようとして作った、ガリバンの新聞である。子どもたちから、つぎつぎと手紙がくるが、ひとりひとりに短い返事を書くよりも、新聞にしてくわしく東京生活を知らせようというのである。豊島区(現在)の長崎町に住んでいるので長崎通信と名づけた。

野村先生は、出版社から子ども文学読本を作ることを引き受けて来て、その編集を手伝わせてくれる。内外の児童文学や科学物語を読んで、適当なものを選び出す仕事だから、こんないい仕事はない。これは本が出版されるまでは金にはならないので、先生が小学館の雑誌に書いている、日々の修身教科書の教材解説と授業法の原稿を代筆させて下さる。これは、児童の村の安い給料で暮らしている先生の収入を私がもらってしまうのだから、まことに恐縮である。

この原稿料が九円。家庭教師と合わせて十四円、それに大学生の弟が、父からの送金の中から五円わけてくれる。朝めし七銭か十銭、ひるめしぬき、夕飯十三銭。「腹がへっている。水をのむ、こうへってはたまあらない、もっとメシを食わなくちゃァ」と書いている日もある。

十月十一日には、一か月の生活費を算出して、「月二十四円はかかるようだ」と書いているが、そのうち五円は古本を買っている。児童の村の近藤晴彦さんと一しょに油絵をかくために絵の具を買ったり、下宿代三円や映画を見たり、お茶を飲む金も計算の中に入っている。ココア十五銭、野口援太郎校長の訳した教育学書を読み合う火曜研究会のお菓子代が十銭。帽子代二十五銭はバカに安い。古物商で買ったのである。ソーダ水十五銭、おふろが五銭、しるこ七銭、おでん五銭やドンドン焼四銭は空腹にたえずにふんぱつしたものだ。

九月末の感想では「宗ちゃんに済まない」と書いている。昭和三年(1928年)の共産党事件で執行猶予になり、昭和五年に浜松の楽器争議のオルグで静岡刑務所に服役中の掛川駅通りの旅館富士屋の後藤宗一郎さんのことである。非合法から逃げている自分に対する自責の感想である。

十月二日。二十五銭の黒い帽子をかぶって、下駄ばきで池袋の古本屋で本を選んでいた私は池袋署の刑事に引っぱられた。竹刀で肩や背中をたたいて、何か非合法活動をやっているだろうとせめるのである。なんといってもきかないので、「ウソだと思うなら目白警察の特高に聞いてみろ」と言い。問い合わせの結果釈放された。

目白署には、起訴留保中の私のことが、静岡の特高から連絡が来ており、所轄の目白署の特高の監視中であることがわかったからである。警察に助けてもらうとはおちぶれたものだと苦笑したものである。