Vol.45 掲載 1983.12
自責と安堵の失業生活
 戸塚 廉 掛川市家代
当時の筆者
昭和八年(1933年)秋のメモ日記は、この時期の私の複雑な気持ちをよく記録している。非合法運動から逃げ出した自責と、これからどう生きてゆくかの不安が、古本屋の店先で二十銭くらいで買った小学生日記に書かれている。自責と不安で眠れない日がつづく。いわゆる鉄の規律から解放された安堵が、それと複雑にからみついている。

時折やってくる弟と牧沢君と共に、下駄ばきで声高に議論しながら、池袋から高田馬場あたりまで歩いたりする。
そのころ、掛川高等女学校の三年生だった妹の綾子に宛てた手紙が残っている。

            ー 妹へ ー

この頃毎日の生活を書いてみよう。
夜ねるのがまず十二時ころだから、朝はどうしても七時にしか起きられない。起きて、すぐに牧沢君の下宿へ行くと、牧沢君は大てい朝飯を食べている。牧の朝食は十七銭だし、ぼくの下宿でもその位だが、僕は決して下宿の飯は食はない。

牧が学校へ出かけるまで話をしたり一しょに英語をやったりする。牧が出かける時、一しょに出かけて、途中で別れて、僕は椎名町駅近くの飯屋に行って、一食七銭の飯を食ふ。普通なら朝食は十銭なのだが、メシを少なくしてもらうと七銭でミソ汁と香の物がつく。米の飯のあついやつだから、なかなかのごちそうだ。

午前中は読書をしたり感想を書いたりする。十三銭のヒル飯を食べると、大抵児童の村へ出かけて行く。ヒル飯はパンや大福餅でごまかしたし、今日はダンゴ六銭たべていいことにした。

午後三時ころから、画家で児童の村の先生の近藤晴彦さんと油絵をかきに出かける。絵をかいながら、近藤さんと色々話をする。近藤さんは僕に、「君、職業紹介所なんか歩きまはらんでもいい。のんきに学校へ来て子どもと遊んでいりゃあ仕事は野村君なり僕なりが見つけるから、飯は僕ん所と野村君の所で代る代る食べりゃいいじゃないか。」という。

野村さんは、おさらひ会の女学生部を作るといふので、その募集広告のポスターを作った。今、高橋さんといふ女学生が、毎日僕に教はりにやって来る。代数と英語がわからないのだ。野村さんの昌子ちゃんも一しょにやるし、鷲屋さんとこのかず子さんも時々のぞきにくる。この生徒が多くなると、それだけでも何とかやっていけるだらう。近藤氏、野村氏、牧沢氏、この人たちくらい気持ちのいい人は恐らく日本にも少ないだらう。
近藤さんと一しょにかいた絵は、ちょっとよく出来そうだ。昨日の寒さでかぜをひいた。
また。  兄より
(つづく)
児童の村のあった長崎町から筆者と牧沢氏が手紙の代わりに掛川と青島の教え子たちに出した新聞です。