Vol.44 掲載 1983.11
非合法からの脱走
 戸塚 廉 掛川市家代
児童の村近くの野原で子どもたちの写生風景
弟の寄食している家の叔母は、私の母の妹であり、私も弟も治安維持法で罰せられるようになったことに心を痛め若くして母を失った私たちを、実子のように思ってくれた。昭和五年(1930年)に耕作者運動で一日だけつかまったあとで、叔父が仏教関係の本を送ってくれたのも、信仰心の深い叔母の志だったのであろう。

叔母の家を去ると、私は、藤枝の青島小学校を退職して、児童の村小学校に来ていた牧沢伊平君の下宿に一泊した。どうしても、まっすぐに帝大セツルに帰る気持ちになれなかったのである。牧沢君も非合法運動に向いていない私の性格をよく知っていた。

椎名駅前に近い牧沢君の下宿から本所のセツルメントにつくまでの電車の中で、私の決意はようやく固まった。「ひとは卑怯といわば言え、おれは、おれにできることを一生懸命やるんだ。」そう思うと気持ちは楽になった。セツルには浦辺君はいなくて松永健哉君だけだった。「やむをえないな」松永君は、ひとことそんなように言っただけだった。

ふとんやわずかな荷物をまとめて、牧沢君の下宿にころげ込むまでの円タクの中でも、私は「お前は卑怯だ!」という自分の中の声のおびえていた。
一九三三年の九月四日である。


             失業者の周辺

牧沢君の部屋は六畳敷きだったろうが、本と机で三畳くらいしか空間はない。それに、おそろしくするどい感覚の持ち主だから、どんなに許し合った仲でも何日も一しょにいられるものではない。私は二、三日して近くの下宿屋を見つけて移り、児童の村を訪ねたり、下宿で本を読んだり、牧沢君と議論したりして暮らした。

野村芳兵衛先生は、傷心の私を、あたたかく抱くようにして、家庭教師の口を見つけたり、自分の書いている修身の原稿を私に書かせて原稿料をくれたり、住宅の雨といをなおさせて一円くれたり、二食でがまんしている私を呼んで牛肉で夕飯を食べさせたりしてくれた。

児童の村の近藤晴彦画伯や小林かねよさんは児童劇の脚本を書いたりしていたが、私は謄写版の原紙切りを内職にしようとしていたので、その脚本や児童の村だより(学校通信)とともに私にガリ切りさせて、小遣い銭をくれたりした。

何よりうれしいのは、野村先生が講演で出張する時、先生の受持の子どもの授業をさせてくれることだった。免許状をとりあげられてしまった、もう子どもに授業するなんて思いもよらぬこととあきらめていた私にとって、世界でも有名な自由学校で授業ができるなんて、まったく夢のようなことだった。私の日記は感動深くそのことを記録している。