Vol.43 掲載 1983.10
弟の抵抗
 戸塚 廉 掛川市家代
弟の卒業論文「国会開設運動史論」
澤田章先生 明治十四年の大詔渙発(たいしょうかんぱつ)を招来せる民間の国会開放運動に就いて。 昭和六年度 学部日本科 戸塚哲郎
東京に帰っても、私の足は、やはり真っ直ぐに帝大セツルには向かわなかった。吉祥寺の叔父の家に寄食している弟哲郎を訪ねて泊まり、自分の気持ちを話した。

帝大セツルの医療部なら安全と思ったが、それも期待できそうもない。むりして、合法非合法スレスレの所で働くにしてもあんな恐ろしい警視庁の刑事に対決して、秘密の組織を守りぬく自信は私にはない。私はもっと広く日本の社会に民主主義の土壌を耕す必要があるし、そういうことには私は役立つことができると思う。

おれは勇気があるから、非合法運動をやったのだと五回されているが、実は弱いからやったのだ。非合法運動をしている人たちからすすめられて、それをことわる勇気がなく、ことわりきれないからやったのだ。おれと同じように、勇気がなくて、強いことはやれないが、今の日本の政治はいやだという人が一パイいるだろう。

非合法運動に参加した教師は五百人くらいだろうが、子どものよろこぶ民主的な教育をのぞんでいる教師は二十万も三十万もいるだろう。おれは、その心弱い、まじめな教師と一しょに、日本の教育をよくするために働きたいし、児童の村の野村芳兵衛先生や牧沢伊平君の力をかりればできると思う。

弟と枕をならべて、夜半までしみじみと話をしたのだった。

弟も同感であった。私とほとんど同時に、国学院大学の学生運動でつかまり、やはり起訴留保処分になったが、叔父のおかげで大学ではそのことを知らなかったため、退学処分をまぬがれた弟は、そのために予期していなかった卒業論文を作りはじめていた。

テーマは「国会開設運動史論」というもので、明治の元勲といわれているやからがいかに醜い権力争いをし、農民や商工業者等の要求する真の民主制の実現をさまたげて暗躍したかを徹底的にえぐり出す構想であった。

私は小学校時代から教科では歴史が一番好きで教師になっても、専攻科で歴史を選び明治維新史をていねいに読んでいたが、相当な専門書でも、維新の元勲を悪玉としてえがいたものはなかった。しかし、弟は彼等の手紙、日記、集会での発言、旧藩対抗の紛争等の原資料を豊富に駆使し、整理しておどろくべき事実を調べあげていた。

私は大学というものはたいしたもんだと思った。ことに国学院のような神職を作るような大学にこんな資料があるのは驚くべきことだと思った。

弟は、この卒論を書くことを彼の政治変革への道を弾圧し、その志を奪ったものへの抗議として書くつもりのようであった。明治の「元勲」がいつわりの議会制度を作ったために、治安維持法のような、世界に類のない悪法が、日本の進歩への道をふさいでいるのである。