Vol.42 掲載 1983.9
東京の特高刑事
 戸塚 廉 掛川市家代
自宅に作った子供クラブ。村の子供図書館は学校に作ったものの分館。
八月も終わりに近いある日、帝大セツルメントの私の室にドカドカと入ってきた男があった。体格のいい目のギョロッとした男を見て、今度こそ刑事だと私は思った。ほんとうに。それは本物だった。

「お前は何だ!」
私がドギマギしていると、浦辺史君がとび込むように入って来た。

「この人は静岡高校の学生です。来年東京帝大に受験するので、夏休みを利用して、ここの仕事を手伝いながら勉強しているのです。」
刑事は、うさんくさそうな顔をして出ていった。

東京の刑事の恐ろしさ。私は掛川警察で四十日間留置されて静岡の特高にしらべられたが、私の家は貧乏地主とは言え、三百年の歴史を持つ名門であり、祖父は地方政治家、父は警察と関係の深い県の消防連合会の顧問だから、手荒なことやひどいことば使いはされなかった。それと比べこの東京の刑事の荒々しさ憎たらしさ。ひととけんか一つしたことがなく、親や教師から叱られた経験を全然もっていない私には強い衝撃であった。


            二度目の徴兵検査

九月のはjめに、私は静岡の家に帰った。徴兵検査を受けるためである。私は大正十五年(1926年)に徴兵検査を受け、その年の四月から五ヶ月の短期現役兵をつとめ上等兵になった。しかし、教師になるものには、本来は二年つとめるべき現役兵を五ヶ月に短縮すると、兵役を短くするために教職を希望し、少しつとめるとサッサと教師をやめるものが生じ易い。今とちがって、待遇の点では教師は割りの悪い職業だったからである。

私のように、師範学校を一年やれば教師になれる者の義務年限は二年であった。しかし五ヶ月の短期現役をやったものの義務年限は八年になった。徴兵忌避の予防である。私は七年でクビになったので、もう一度兵役をやらねばならないのである。

私は完全に健康体で体格もいいから、当然甲種合格と覚悟していたら、検査官の陸軍大佐は、「君はムネをやったことがあるね、よし、丙種!」と言った。丙種は、そのころでは兵役免除と同様だった。赤い思想のものを軍隊に入れると、その監視が大変だからとらないのである。


                別れ

私は帝大セツルで発行していた雑誌「児童問題研究」を友人の教師たちにすすめたり、浦辺君や松永君が使っていたソビエト映画「人生案内」の紙芝居を、村の子どもたちに見せたりして数日をすごしたのち、意を決して東京に帰った。掛川駅まで送って来た妹綾子が見えなくなるまで汽車の窓から眺める私の目からは、とめどもなく涙が流れていた。これが最後の別れかもしれない、そういう気持ちであった。
「人生案内」
1931年ソビエトで製作されたトーキー映画(ニコライ・エック監督)
社会主義革命後の飢餓や戦乱の中でレーニンの「ソビエト連邦には浮浪青少年があってはならない。彼等を青春はつらつたるかつ幸福なる市民たらしむべし。」という言葉を基にして作られた浮浪児を中心とした人間ドラマ。