Vol.41 掲載 1983.8
貧乏地主の三百年
 戸塚 廉 掛川市家代
名古屋の日本画家若山岳仙を招いて原川の鳥居屋に泊めて、画家のかいている所を筆者に見せる父(左)
チョビひげ鳥打帽でおびやかした石田宇三郎も、街頭連絡の増田貫一も刑事ではなかったが非合法の教労や新教(新興教育同盟)は、私の上京を喜んで、つぎつぎと秘密会議につれ歩くのには困ってしまった。

私は小笠掛川の秘密組織から逃げて東京にやってきたのだ。もう警察につかまるような活動はこりごりだ。何よりも、私が四十日も掛川署に拘留され、教師をくびになり、教員免許状をとり上げられるようなことしても。私の真実を信じて一言もこごとをいわなかった父を、これ以上悲しませることはできない。

「三百年前には、家代村の中で、居士(こじ)のつく戒名をもっていたのはお宅だけのようです。」と、吉岡の春林院の大竹和尚は過去帳を調べて教えてくれた。徳川時代の地主は、貧しい水呑百姓に金をかして、返せないと田畑をとり上げて大きくなったという。しかし、私の家は、そういうことができなかったために、今では、家代には、私の家より大きい地主は九軒くらいある。

祖父は明治十四年(1881年)ころから十七才で家代村の戸長(庄屋-のちに村長という)になったという。県立掛川中学が明治十九年に廃校になると、村の地主たちを説得して、二十一年に二十四才で五年制の少寧精舎という中学校を作った。その後も、大正末まで三回くらい村長をやり、郡会議員も三回やっている。昔は村長も議員も給料をもらえない名誉職であったから、私の家は人助けのためにだんだん財産をへらし、父が継いだ時は田畑合わせて一町歩(約三千坪)たらず、山林二町歩くらいになっていたようである。

ところが、袋井銀行の原川支店長をしていた父は、ある預金者にひっかけられてカラ手形をつかまされ、銀行に損失をさせないために、大きな借金を作ってしまった。

父は日本画、俳句、義太夫などの広い趣味人でサークルを作って楽しんでいたが、この失敗以来、金のかかる文化活動はプッツリやめて借金の返済につとめていた。父にとって頼りになるのは、長男である私が、給料の一部をいくらかでも父に提供することであった。しかし、何も知らない私は、給料はほとんど本屋に支払ってしまい、洋服も作らずに、安い既製品のつめえりをひっかけているので、見兼ねて父が安いオーバーを買ってくれたりした。自分の失敗の責任を感じて私に一銭も金を出せといわない人であった。

私は、新教の運動を本格的にやる決意をして、じきにクビになると思うようになってから、気がついて、給料の三分の二くらいを父に提出するようになったが、時すでに遅し、一年たゝぬうちに、私はクビになってしまった。

私が非合法活動から逃げたいのは、そういう事情があったからである。警察につかまらず、安い月給でも、メシは二回でがまんして、できるだけ父に送らなくてはならない。親孝行をしなくては、あのやさしい、理解のある父に申しわけがない。

秘密組織の幹部たちは、そんなことは知らない。戸塚というやつは勇気あるやつだ。他の県の連中は弾圧されても、全然報告なんかしないで連絡を絶ってしまうのに、チャンと出て来た。やつが静岡でやった活動はすばらしい。新設されたプロレタリア文化賞は、静岡支部以外にやる所があろうか。そういう支部を作った戸塚の話をできるだけ多くの同盟員に聞かせ、機関誌にものせよう。

私は、刑事が歩きまわっていそうな炎天下の東京の町を、あちらこちらと連れ歩かせられ、秘密印刷所で一日中活動報告の原稿を書かされた。