Vol.40 掲載 1983.7
二人の親友
 戸塚 廉 掛川市家代
「児童問題研究」
1933年9月号(創刊は1933年7月)
東京帝大セツルメント発行 
戸塚廉氏所有
「東京へ逃げる」と書いたが、全くアテなしに出掛けたのではなかった。非合法運動の仲間から、東京帝大セツルメントの医療部でひとを求めているから、やってみないかといって来たのだった。どんな所か知らないが、医療部なら、警察につきまとわれるようなことはあるまい。患者のよごれものの始末でも何でもやろう。うまくやれば、医者の助手くらいの技術を身につけられるかも知れないと思った。

しかし、なぜかまっすぐにセツルメントに行く気になれず、すでに解放されて叔父の家にいる弟を訪ねたり、牧沢さんの下宿に泊まったりして二、三日をすごし、やっとのことで、本所区(今の江東区)にあるセツルメントに行ってみた。

案の定、セツルで私を迎えてくれたのは、非合法の全国代表者会議で見知っている男二人であった。非合法の会議では、実名は使わないで別名を使っているし、このセツルでは、さらに別の偽名を使っているのが当然である。この二人は、のちに私が「生活学校」という雑誌を作るようになると、非常な熱意を持って協力してくれた浦辺史君と松永健哉君である。

松永君はのちに変節して戦争協力者となったので絶縁したままだが、浦辺君は、保育運動の全国的な指導者になり、戦後は名古屋の日本福祉大学の学長をつとめ、今もおやこ新聞を購読してくれている。浦辺君と松永君は、ここで、「児童問題研究」という雑誌を作り、セツルの児童部を指導していた。

セツルメントというのは東京帝国大学の学生の社会事業研究のセンターとして作られた施設で、医療部もあるだろうが、ちっともそういう所へ紹介もされず、一室を与えられて、子ども会で子どもと遊んだり、雑誌の手伝いをしたり、そのころ流行していた“東京音頭”のおどりの会をセツルの広場でやったりした。私は、踊りというものは一度もやったことがなかったが、老若男女や子どもたちと歌いおどるのは、すごく楽しいものであった。

ここにいた十日ほどの間に、私は、私の後半生に大きな影響を与えた二人の友人に出会った。

ある日、セルツの屋上で本を読んでいる私の前に、鳥打帽をかぶって口ひげを生やした男が立った。「刑事だ!」私はドキンとした。またつかまると思った。しかし、それは、浦辺君の教育労働者組合(教労)の同志の石田宇三郎君であった。彼はその月のある雑誌に書いた私の文章を口を極めてほめた。彼にほめられたことは“無力ないなか者”という私の劣等感をとり去り、やがて、みずから雑誌を発行して、桜木小学校での“いたずら教室”の教育実践を世に問おうとする自信を作るきっかけとなった。

もう一人の親友増田貫一君と街で会ったのは、やはり浦辺君を通しての「教労」の指示によったものだろう。「どこの町の道の左がわを歩いていくと、青いフロシキの結び目を少し垂らして右手に持った小さい男が来るから、彼と一しょに行って会合に出よ」というような指令である。

もしその男が刑事につかまって私との連絡方法をしゃべり、刑事が代わりに私に会いに来れば、私はたちまち検挙されてしまう。この時の男は、さいわいにも本物で、彼が、のちに増田貫一として、私の雑誌を石田君や松永君、浦辺君とともに作ることとなる。戦後の増田君は、日本共産党の本部で機関誌「赤旗」の文化部長となり、私の随想を十回くらい「赤旗」にのせたりした。

こんな調子では、とても非合法から抜けられそうもない。おまけに、静岡支部には日本プロレタリア文化連盟賞の小林多喜二賞をくれることになるという。