Vol.39 掲載 1983.6
東京へ逃げる
 戸塚 廉 掛川市家代
日本プロレタリア文学同盟の機関誌「戦旗」
1930年2月号(発売禁止のもの)
戸塚廉氏所有
私はもともと臆病者で、弱虫だから、逮捕だ拘留だと四十日もやられてこりごりしてしまった。だから、東京の秘密のアジトを転々とつれ歩かれるのは恐ろしくてしょうがなかった。そこは、掛川の弁護士の栗田小文次さんが、静岡新報へ世話をするというから帰って来いという手紙が父から来た。新聞社なら望む所だし、恐ろしい非合法からも逃げられると喜んで帰って来た。

栗田さんは、西郷村五明の衆議院副議長松浦五兵衛の弟で、当時社会民主党の県会議員だった。
「君たちは、新聞にいろいろ書かれて、世間から誤解されているだろう。真相を私の名で静岡新報に発表させるから、思いきり書いてくれ」という。それによって私がどのくらい文章が書けるかを見ようという気持ちのようだった。

私はシメタと思った。何しろ「遠州共産党事件」と称して各紙の静岡版にあることないこと書きまくられている。女教師でクビになった人たちは、将来結婚にもさしつかえるだろう。

へたに書きかえられてはたまらないから、私は、栗田さんが書いている形の文章で、一日分四百字で十枚くらいずつ五回に書き分けて、この運動の趣旨目的実践を書いた。栗田さんは非常に感心して、その冒頭に彼の文で一回を加えて、六日間連載した。これは近所のおやじさんや、村の青年、「いたずら教室」の子どもや親たちを大いに喜ばせた。しかし、これが新聞にのったらまたとがめられて起訴になりはしないかと、父はひどく心配して執筆をやめさせようとしたが、これだけは父に従うことはできなかった。

栗田氏は、静岡新報の重役だったから、政友会の機関誌のようだった静岡新報も、その人の名で書かれた文章をのせないわけにはいかなかったが、私を社員にするほど甘くなく、栗田氏からも何の話しもなかった。

静岡高校生の宮浦憲一君は、五、六月になると、またアカハタや共産青年同盟の機関誌をもって私の再起をうながすようになった。東京の新楽教育同盟のオルグからは、私が五月に書いた静岡支部の活動の報告ののった機関誌がガリ版刷りで作られ、送られてくる。これが警察に見つかれば、またつかまってしまう。

私は悩んだ。非合法から逃げるのは、いかにも男らしくない。卑怯者だ。しかし、非合法運動は全国的に弾圧されつくしている。それを再建したところで、ほんとうに、この封建的軍国主義の日本をひっくり返して、民主日本を作ることができるだろうか。

非合法運動は、日本の社会のことを最高に自覚した人たちのうち警察につかまろうとクビになろうと、どうしてもやるという、特別な人たち、富士山なら頂上の白雪にあたる人たちの運動じゃないか。その頂上が安定しているためには、その下の中腹や裾野がしっかりしていなくてはならない。

おれは、度胸がないから、その頂上の運動--子どもに革命を教えたり、階級矛盾を教えるようなことはやらなかった。青年団や、消防組や、子供クラブや、子どもや青年の図書館活動や、二百人の先生たちとの、おだやかな民主教育の研究会のようなことしかできなかった。

おれが度胸がないからやったことが、中央では日本一だといってほめられている。よし、おれは、宮浦君が求め、東京の非合法組織が求めている白雪の頂上活動、非合法から逃げて、裾野の開拓を日本中に広めるため上京しよう。私はやっと決意を決めた。

その時 八月、牧沢伊平さんに誘われた児童の村の先生たちが浜名湖へ遊びに来た。私はその一行と共に北浜名湖で遊び、上京の汽車に乗った。
(つづく)