Vol.38 掲載 1983.5
失業
 戸塚 廉 掛川市家代
牧沢伊平さんは大正14年3月から16年(昭和2年)3月まで西南郷小学校に勤務、久保田金平氏の空き家を借りて高橋金弥、金田輝男、松本三郎氏らを教えたのち、掛川第一小に転じ、筆者を啓蒙した。
今二瀬川にある佐藤医院は、そのころまでは下垂木にあって、哲哉さんはまだ医学生で東京におり父君の鶴吉さんが経営していた。鶴吉さんは碁の名手で、桜木村では最高とされていた。私の祖父もそれにつぐくらいのとこだったらしく親交があった。鶴吉さんは独学で医師の資格をとった秀才といわれ、社会運動にも理解のある人で、看護婦さんの平出甲さんは私たちの非合法組織の同盟員であった。ブタ箱で急性腎臓炎になって出獄した私は、佐藤医院でクスリをもらっては閑談し、十日もすると全快した。

静岡県教育課から呼び出しがあって、県庁で一応の事情聴取があった。そのころ教師たちの間で一番評判のよかった県視学(今の指導主事)が、私をそっと陰に呼んで「君は、あの組織にさえ入らなければ、静岡県のためにいい仕事をしてもらえたのになァ」と言った。

県教育課の行政処分は“免許状褫奪(ちだつ=剥奪の意)”の極刑。もちろん退職金も恩給もなし、首になる日までの四月分の給料を日割り計算で受け取っただけだった。そのころ静岡県の教員組合は、私と、静岡師範学校の英語の先生と二人きりの非合法組織だから、クビキリ反対闘争や、退職金よこせの闘争なんか夢にも考えられない。そんなことをすれば、せっかく起訴留保ですんだ司法処分の「留保」がとり消されて起訴され、裁判されなくてはならない。

教員免許状をとり挙げる使者は佐藤薫校長である。郡の校長の中でも勉強家の佐藤先生は、昭和五年(1930年)の「耕作者」事件で私がアカのレッテルをはられているのに、よく私の「いたずら教室」の実践をほめてくれた人だけに、「ち奪」の使者は、いかにもつらそうだった。

クビになったので、何か仕事を探さなくてはならないが、県下の新聞で事件のことを書き立てられているので、使ってくれる所はないにきまっている。私は弟への面会と職さがしと、組織への報告のために上京した。弟は。私がつかまった前日に東京へ逃げたが、四月半ばには、大学の中の組織で検挙されて、渋谷警察に入っていたのである。ヒゲののびた弟は私を見てニヤリと笑った。これも起訴留保になりそうだという。

掛一小から耕作者事件で青島小にとばされた牧沢伊平君は、この四月から児童の村小学校の教師になっていたので彼の下宿に泊まる。

非合法運動で私と直接連絡をしていた中央のオルグは、現代教育社という雑誌社にもぐり込んでいたので、そこを訪ねると、非常に喜んで「君は必ず来るだろうと思った」という。弾圧されて報告にくるのはほとんどいないという。それもそうだ。連絡に来たことがわからば、ぼくも起訴されるのだから。私はちょっとバカ正直だったようだ。

東京の非合法組織は、つぎつぎと私を秘密の会合につれて行って、小笠・掛川の人たちと一しょにやった活動をくわしく報告させ、すごく感動して聞いた。私は、こんなあたりまえのことを何で東京の連中がこんなに聞きたがるのかと驚いたが、どうも全国的に、静岡の仲間がやったようなことはおこなわれていなかったようだった。最後に、非合法運動の連合印刷本部とでも呼ぶべき所へつれて行かれた。そこでは数十人の人たちが謄写版印刷の原紙切りをしていた。アカハタも共産党青年同盟や左翼労働組合やプロレタリア文化運動の機関誌も、もう活版で印刷することができず、皆ガリ版刷りだった。

私は一日ここにカンヅメにされて、静岡県下の新教運動のことをくわしく書かされた。
(つづく)