Vol.37 掲載 1983.4
ブタ箱の春
 戸塚 廉 掛川市家代
県の特高の調べが終わるまでは、毎晩おまわりさんが徹夜で警戒していた。おまわりさんたちは、みんなひどい低賃金で、上官にどなりつけられ国民からいやがられる仕事をさせられているので、私たちが社会の矛盾を説き、社会主義の話をすると、非常な好意を寄せた。掛一小で私の教え子の兄弟を子に持つ樋沢巡査は、しみじみと巡査生活の悩みを語った。

この時の検挙の範囲は広く、横須賀町の鶴内正吉さんも、「野蒜」にでも関係していたのか、この時にやられたらしい。女教師たちは森町の警察に留置されているという話しだった。私はこの人たちの結婚に及ぼす影響を思って心が暗かった。私がもっとしっかりしていれば、この人たちまで検挙されずに済んだかもしれなかった。

私の村の青年団の活動で働いた農民青年たちは、まさか教育の組織には入ってないだろうと見たのか、ひとりも検挙されなかった。特高の調べはすばやく進行して、四月八日の花祭りのころは、検挙者も多くは釈放され、榛葉じゅん(かねへんに享)一、宮浦憲一の両者と私だけが残った。

掛川公園で花まつりがおこなわれる前から、お花見の客が、仲町の通りをゾロゾロ通るのが、ブタ箱の太い格子の間から見え、一日中音楽が鳴り、花火がとどろいた。

親戚の名で弁当が差入れられたが、毎回同じようなごちそうでまいってしまい、上等の弁当はいらんから、その金でブタ箱にいる全員にミソシルを食べさせたりした。差入れ弁当に教え子の堀内勤君の名が書いてあった時は、泣けて泣けて食べることができず、カッパライの少年に食べてもらった。

検事しらべがはじまって久しぶりで仲町を歩き、佐藤薫校長に会ったので、「ご迷惑をかけました」とあいさつしたら、先生は、困ったような顔をして居られた。先生は、県教育課が学校へしらべに来た時は私の作った文集や壁新聞、学級新聞などを見せて、私のことをつとめてほめてくれたという。そのころはまだ転向ということはなかったので、検事も事実を調べるだけであった。

退屈でしょうがないので雑誌を入れろと要求したら、叔父の経営する東洋堂書店から、「キング」とか「講談クラブ」を持って来たので「こんなものが読めるか『改造』とか『中央公論』を入れろ」と要求した。それらの総合雑誌には、小林多喜二や徳永直らのプロレタリア小説がのり、マルクス主義の論文がいくつものっているので、監房の中でゆっくり勉強した。

四月下旬になると、私はカラダがむくみ、ねていると腰が痛んだ。風呂に入れろと要求すると、署長官舎の風呂をわかして入れてくれた。文学好きの若い巡査がいて、時間があれば房の前にやってきて文学談にふけったが、風呂に入る監視にもその人が来て啄木の話になり「こころよく我が働く仕事あれ、それを仕遂げて死なんと思ふ」という啄木の歌のことで、「あなたたちはこころよく働く仕事のためにつかまったんでしょう。うらやましいな。おまわりさんなんて快く働く仕事じゃないですよ」とつくづく言ったものであった。

私のむくみは急性腎臓病とわかり、検事調べも終わっていたので四月三十日に釈放された。五月一日、メーデーの朝、私は家の前の道で子どもたちが登校するのを待った。前には登校前に必ず家の子供クラブで遊んで行くことになっていた子どもたちは、遠くの道をまっすぐに橋へ行ってしまった。私の家に来ることはとめられていたのであろう。子どもたちは、まもなく私の姿を見つけ、クラブの挨拶ときまっていた形で、手を高く挙げる私にこたえて、一せいに手を挙げながら藪のかげに消えていった。
挿絵:まつやまふみお