Vol.36 掲載 1983.3
弾圧近し
 戸塚 廉 掛川市家代
昭和八年(1933年)二月ころから、刑事が新興教育同盟員の貧農青年の家に上がり込んで、「ホウ、おまえなかなか勉強するんだなあ」といって、プロレタリア文学同盟の雑誌『戦旗』などを見たり、「チョット遊びに来いよ」などといって警察につれていくようになった。同盟の結成を知らせた私の報告が、東京の同盟本部の捜査で奪われたのである。

私は村の消防組の百人の隊長になっていた。都会では、警察の下受けに利用されて、スト破りをしたり、また軍備縮小をする代わりに消防組や青年団に軍隊教練をやらせていた。私はそのことに反対する『隊長訓辞』をやると、そのことが、若い私が隊長になったことをねたむ最高幹部から、校長や村長につつぬけになり、親切な校長や伯父にあたる村長が心配して注意してくれるようになった。

校長の佐藤薫先生は、「君は実によくやっているから県に昇給の申請をしたら、当局は、アレはどこかへやらなくてはならんと言った。何かやっているんじゃないかい。」と言ってくれたが、「ご心配なく。何もやってやしません。」と、ウソをつかなくてはならなかった。

宮浦君や広岡君がやっている左翼色の濃い文学雑誌『野蒜』のことも。刑事がかぎまわっているようであった。

私は三月の学年休みあたりが危ないと思った。教師への弾圧は、受け持ち学級の代わるこの時期に行われる。子どもたちへの影響が少ないからである。子どもたちには、それとなく、「おれは四月にはどこかへ行くかも知れんよ。」と言い、三月におこなわれた学芸会では、学級全員が登場するように改作した久保田万太郎作の『北風のくれたテーブルかけ』という劇をやらせた。

子どもたちは、「先生がいなくなると、もう学級新聞が作れなくなる」というので、週刊の『五年生の友』を週二回にした。その三月十五日号には『ぼくらが六年生になると受け持ちはたいがい大畑先生が受け持ちになる。六年生になったらどじかってやるといったそうだ。みんなは、大畑先生が受け持ちになりゃ、(学校を)やめちゃうといった』と書いている。私は、子どもが何を書くのかわからないので、子どもたちが原稿を切ると点検することにしていた。だまって原紙の『大畑先生』という字を爪でゴシゴシと消したが、現存しているこの新聞を、知っている人が見れば、その先生の名が読めないこともない。もちろん大畑というのは実名ではない。

三月二十日ころ、いよいよ弾圧近しと感じて、同盟員は陣馬峠で対策を話しあい、帰りに掛一小学校へ寄ったら、牧沢伊平さんが青島から来ていた。彼は、東京の私立児童の村小学校の教師になるので退職したという。

二十二日の夕方、妹の綾子が、「今日、おまわりさんが戸口調査に来たが、村の巡査ではなくて、隣村の巡査だったし、隣へは寄らずにウチだけ寄って帰った。」という。「明日朝だな。」と思った私は、作りかけの青年団報を完成し、取られて困るような文書はすべて安全な場所にかくした。

弟哲朗は国学院大学の共産青年同盟のキャップをしていたが、休に帰省すると『野蒜』の会にも出ていたので、「オレもやられる。」と、急用ができたと言うことにして夜行列車で東京に逃げ帰った。

二十三日の朝、別棟の室でよく眠っているところを父に起こされた。二人の刑事が私の部屋を捜索したが、運動関係のものは全然なかった。義母が洗面器に水を入れて戸口にもってきてくれたので洗面し、朝食は食べないで、雨の中を刑事と二キロほど先の県道にとめてあった自動車まで歩き、仲町の警察署に行った。

『耕作者』でひっぱられた時はブタ箱には入れられなかったが、今度はそうはいかなかった。ブタ箱には島兄弟と宮浦くんがひっぱられて来た。
「ヤイヤイ、またこんな所へつれて来やがって。バカヤロウ、逃げもかくれもしやしねえぞ。すぐ返せ、こんな寒い所にいられるか。」
農民運動で何回もパクられたことのある島利安君の声がひびき渡った。
(つづく)