Vol.35掲載 1983.2
非合法運動
 戸塚 廉 掛川市家代
去る一月七日、私たちは非合法運動五十周年の会を“ひょうたん島”で「合法的に」開いた。

小学校から師範学校を卒業するまで、まことにおとなしいモハン生としてすごした私が、ひとも恐れる警察や刑務所に三回もいれられ、今はまた多くの人たちにかわいがってもらう幸せなおじいさんになったのは、大正十五年(1926年)に掛川第一小学校の教師になった時の深刻な悩み--子どもを平等に愛しえないという悩みからであった。

かわいくない子、憎らしい子ができるのは、社会が悪い、貧乏人を作る社会組織を変えて、社会主義の国にするために、金をかけて働くことが、すべての子どもを愛する道だと発見するまでに満四年かかった。

その第一歩として昭和五年(1930年)に掛一小の中田藤作、佐藤金一郎、中村信一、牧沢伊平、掛二小の粂田英一らの諸君と“耕作者”という小新聞を出し、一番悪者として牧沢、粂田と私が一晩警察にとめられ、その罪で私は雨桜村の山の上の学校にとばされた。

私は大きな学校ではいい教育はできないと思っていたので、山の上の母校に左遷されたのが嬉しくてたまらず、自分の本をかつぎあげて、父が明治四十年代に作った青年図書館を復活させたり、教室に子供図書館を作ったり、ちちが大正初年に創刊した青年団の新聞を生きのいいものにしたりしたが、同時に、中村信一さんと共謀して、この年の八月に設立された新興教育研究所の雑誌「新興教育」の読者会を作ったり、小笠郡の若い教師二百人くらいを会員とする、民主的な教育研究会を作ったりした。佐藤金一郎、粂田英一、山内監一、竹内敏弥など戦後の掛川小笠の大校長、教育長はみんな「耕作者」や研究会の仲間であり、「新興教育」の読者だった人もいる。

「新興教育」は、はじめは合法雑誌だったから岡田書店で買ったが、三号目あたりから発売禁止がつづいたので、東京にいる弟や友人にナイショで十数部を発行所で買って送ってもらった。その頃の非合法の共産党の下部組織の研究所の機関誌だから、読んでいることが発覚すれば警察につかまり、学校の方はクビになるにきまっている。だから、私のところに届くと夜にまぎれて一定の場所で落ち合って渡すのである。掛一小や曽我小には女の先生もいたので、二瀬川の裏の畑で渡したりするのを、ひとが見たら逢引きと間違えられたかもしれない。

読者の会は、私の家はマークされているので、篠場の女教師の家、農民組合の闘士だった島寛次郎さんの家、小笠山の陣馬峠などでやったものである。

昭和七年(1932年)の夏。新興教育研究所が同盟組織に変わって、学者も教師も農民も商人や労働者もみんな同格の同盟員ということになった。

私はそれまで青年団で活動していた石川武雄、小澤英雄、山崎吉郎、山崎菊丸、山本清一の諸君、曽我村農民組合の島寛次郎、島利安兄弟、細田の広岡八郎さん、緑町の静岡高校生宮浦憲一君、上張の竹田というブリキ屋さん、佐藤医院の看護婦さん、掛一小の二人の女先生、今は京都にいる辻本元さん、松井秀吉さん、水垂の榛葉淳一さん、清水市の女教師と青年で、昭和八年(1933年)一月七日に、私の家で結成集会を開いた。

これより先、昭和三年(1928年)三月十五日の日本共産党への大弾圧でつかまり、保釈出獄していた駅通りの旅館富士屋の当主の後藤宗一郎さんを彼の家に訪ねたり、小笠山麓の池の堤で会って教えを乞ううたものであった。

富士屋に行くと、後藤さんは急いで私の自転車を家の中にかくした。彼の部屋には、裏に「万国の労働者団結せよ」をかいた木の柱掛け(聯:細長い対の書画板)があり、これから来る時は裏の田んぼ道から来いと言った。のんきな私は、非合法運動とはそんなものかと思ったりした。結成の日には、みんなの自転車とはきものは茶部屋にかくし、仲間は、運動上の変名をきめた。

後藤宗ちゃんの入獄壮行会は肴町のすし安に非合法の若者三十人くらいで行われた。
(つづく)