Vol.33掲載 1982.12
柿盗人今昔
 戸塚 廉 掛川市家代
平田のお代官、掛川信用金庫の理事長の黒田節三さんにきいた話である。
大正のはじめのころは、中学生は皆徒歩で通学したから、遠方の黒田さんは寄宿舎生徒である。
秋の日曜日、黒田さんは親友三人と誘い会って粟ヶ岳に登った。帰り道、山の畑に、よく熟したカキがいっぱい生っていた。
「オイ、あれをちょっと失敬しようじゃないか」
わけてもワンパクの山菅正誠さんの提案で三人はカキの木に登り大いに食った。いつの間にか木の下に来たカキの主が「ドロボー」とどなって竹ざおでつつく。
「おれが、あのおやじに小便をひっかけるから、とび降りて逃げろ」
豪傑山菅の作戦はみごと成功。寄宿舎に帰って舎監(寄宿舎の監督の教師)にそのことを話すと、
「バカヤロウ、ひどいことをする奴等だワッハッハ」。それでおしまい。

戦後に小笠山をこえて上内田の五百済へ帰る中学生が、道ばたのわきにあったカキの木に登って食った。柿主がそれを警察にうったえた。次の日、警察が柿の木のわきにひそんでいて、中学生が木に登るのを待って現行犯で警察にショッピキ、さんざんお説教をした上に学校に通報し、学校では非行生徒として、ひどく叱り、親たちまで呼びつけてしぼったという話を聞いた。

池新田方面で中学生が道ばたのマクワウリを二つ三つとって食べた。何千とも知れぬウリの主はこれを学校に知らせた。教師たちは学校だけですませようと主張したが、PTA会長がこれを聞いて教育委員会と警察と新聞記者に知らせた。新聞にのり、学校でしぼられ、教育委員会は、その「非行生」にひとりひとり「優等生」をつけて「指導」させた。

これをきいて、私は「おやこ新聞」の親版で、その不当なやり方を、きびしく批判した。すると、校長さんがやってきて、残りの「おやこ新聞」を全部売ってくれと言う。「商品だから売らぬとは言わないが、校長さん、あなたは教育者なんだから、生徒の立場に立って、マクワの二つや三つ何だと、PTAや警察や地教委を説得したらどうだ。おやこ新聞は焼き捨てよと地教委に言われたんでしょう。焼かれる新聞は売るわけにはいかない。私は、この残った新聞を、あなたの校区に無料配布しますよ。」とおどかしてやった。同級生だったその校長の弱腰にハラが立って仕様がなかったのである。

明治、大正の人間は封建的だと言う。しかし、大正時代に育った私には、大正という時代は立派だったと思うことが数々ある。粟ヶ岳の柿主は、小便をひっかけられても、学校に知らせもしない。舎監は「ワッハッハ」と、笑しておもしろがる、子どものワンパクをゆるし人間を大事にする心。これが教育だ。誰もかもが民主主義といい、今日の日本に非行、暴力、犯罪、暴走族、殺人のニュースが絶えないのは、誰に責任があるのだろうか。

最大の危機に小便が出る山菅さんはすごい人だ。この人は数年前まで、東京都の弁護士会をしていた。マクワウリを告発した人は小笠郡PTA連絡会長をし、のちに小笠郡地方教育委員会の会長、全国地教委協議会の会長をした男である。青少年不良化対策協議会という、自民党の組織の活動実践を作るための大活躍であったようだ。

エライ人にもいろいろあるものだ。