HONDURAS
レポーター:小嶋政男
その11 音楽って何だ、楽譜をぶっとばせ!
Vol.32 1982.11
Que tal? Como estan? スペイン語のワン・ポイント・レッスン。以前スペイン語の発音のことで述べたように母音がほぼ日本語のアイウエオと同じであり、語尾が母音で終わる単語が多いため我々日本人にとって興味深い表現がいくつかある。(1)taberrna(タベルナ)居酒屋・酒場。飲んでも良いが食事はしてはいけないのでこういう?ウソだよ。(2)calamar(カラマル)いか。足が10本もあれば当然カラマル時もあらぁな。(3)almacen(アルマセン)百貨店。百貨店でもアルマセンじゃ仕方あるまい。小生の知っている単語の中でこの3つが特に我々日本人にとっておもしろいので列記してみた。また見つかったらお教えします。

では今月もまた音楽の話。読んで字の如しとよく言うが、この「音楽」ってことばほど簡単にその意味を表しているものはないくらいわかり易い漢字である。音を楽しむってことが音楽であれば教育なんてクソくらえってことになる。音楽の授業を通して音楽を嫌いになる子どもがいる。その子が大人になっても「俺は音楽はダメなんだ」という劣等感を持ち続けるようではまったく教育とはいえない。

これはちゃんとした現実問題であり、この類の人間を何人も知っている。こういう人間を生む最大の原因は「楽譜」にあるといえる。現在の音楽教育が楽譜とかっちり手をつないだ所に存在していることがガンであると断言できる。そもそも音は聞くものであり、見るものではないのであるから、、楽譜なんてものは音楽の本質から離れているものであって当然である。それなのに例えば小学校の成績表に「楽譜が読める」なんという、どうでもいい評価覧があったりする。小生の小学生時代もあり、未だにもって存在している。もう20年近い年月が流れ、いまだに同じ珍事を続けている音楽教師と言われる人達は何も感じないのかねぇ。

音楽の三要素(リズム・メロディ・ハーモニー)っていうのがある。別に何の間違いもないし、どれをとってもすばらしいものだ。私もこの三要素の全部を愛している。もちろん女より愛している。なぜなら絶対裏切らないから。でも、リズムがなくたってすごい音楽はある。例えば山下洋輔の音楽。ドギャ・ドベターンって奏っている中でものすごい感動が生まれている。これでも、ものすごく音楽を楽しめるんだから、ちゃんとした音楽といえる。

また、メロディやハーモニーが別段なくたって、リズムだけで充分陶酔できる。祭りばやしなんてその典型。馬鹿ばやしなんて言われるくらい単純なリズムの繰り返しの中で朝から夜中まで、アーコリャコリャってな具合で乗りまくられるんだから、これもすばらしい音楽といえる。つまり我々人間はそのくらい単純明解な部分で音楽を持っているのであって理屈はもっと後回しにすべきである。

だから楽譜も三要素も便宜上のものであって、音を楽しむのに必要不可欠というものではない。「音楽の成績は2でも祭りの太鼓なら自信がある」という諸君、君も一人のすばらしい音楽人間なのだ。誰が何といおうとこらは正しい。逆にソナタはバッチリと弾けるが、祭りの太鼓はどうもという○×小学校の凸凹先生。あなたは音楽人間としては完全なる落ちこぼれだよ。「そなたは非音楽人間じゃ」ってなもんで、即○×小学校の自由契約教師となり、使った楽譜に火をつけ、愛用のピアノをぶっこわして薪にして風呂を沸かし、今まで貯めたアカを洗い落とし、一から出直す為、太鼓の練習から始め直しなさい。そうしないと、今に罪悪感にかられ、あげくのはては中耳炎にかかって死にますよ。
その12 たかがスポーツだ「プレー」って何だ?
Vol.33 1982.12
Hola! Que Tal? いやどうもあいも変わらずの挨拶で恐縮したくもなるが正直いって日本語のように種々多様な表現があるわけではないので仕方ない。日本語であればそのつながり方によって表現を変えるというのが常識。級友と先生への挨拶を考えてみてください。友人へは「やあ元気」で充分だが、これを先生に対して言ったら問題である。こういうことはガキのうちから生活の中で教え込まれるので、ほとんど誰もが知っている。いわゆる「身についている」というのである。

しかし、こちらにおいては、友だち同志でもHola(オーラ)なら先生へもHola!。バレーボールをやっている中・高校生も、わざわざ日本から海をゴワーンと越えてやってきた指導者(私のこと)に対しても「Hola MASAO」てな調子。時々は「何がオーラだ、このくそガキが、正露丸でも飲んで出直せ」なんても思うが習慣だから仕方ない。正直、相手に悪気はないし、マジに怒っているわけではないが、集団とか組織での行動ということになると「縦の関係」がはっきりせずまとまりにくい、という感じを最近強く持つようになった。

この辺のことについては教育的観点にたって、ひじょ〜にお〜きな関心を持っているので、時を改めてじっくり言いたい放題してみることにする。まあこうして外地で現地人と触れ合いつつ生活しながら「へ」でもないようなことにも気をとめて日本のすばらしさに感激しているというわけであるが、この挨拶というもの、学校のクラブ活動(特に運動クラブ)で重んじられ、小生もその中で育ったので、より強い意識を持つのであろう。学校の運動部というものは日本でずっと大きな存在であり、こういった自分の意志の自由選択で行う一種のボランティア活動は心身鍛練に最高であり、人格形成にも大きな意味を持っていて賞賛に値する。

しかし、ここからが「ミソ」である。英語でスポーツをすることを「プレー(play)」という。この単語は完全に日本語化しており、ほぼ日本全国民が知っている英単語。この「play」という言葉は楽器を演奏するという意味でもトランプをするというような意味でも使える。もともとは「遊ぶ」という感覚を持っているわけで、野球にしてもバレーボールにしても、これらをプレーするという中には「遊び」というニュアンスがあると考えてよい訳である。

しかし、どうも日本の中では「プレー」ということをえらく重々しく捉えている向きがある。どんなに鍛えるなんていったって「楽しい」という感覚がなくては根性もドジョウもあったもんじゃない。苦しむ=精神修養といったような歪んだ美意識を持ってプレーする風潮が日本人の中にまだある。上手になりたくて、勝負に勝ちたくて練習を繰り返すことはよいことであるが、もっとそういう次元を超越した「好きだからプレーする」っていう気持ちが底のところに流れていないんなら己の心身に申し訳ないことだと思う。

小学生の中でもスポーツ少年団という形でいろいろな競技をプレーできるよい時代になった。いわゆる「やるスポーツ」が年々普及していることは喜ばしい。しかし、なくなれば死んじまうってもんじゃないし、きちっとした組織・用具がなくたって楽しむ方法はある。「馬のり・缶けり」という昔ながらの子どもの遊びも、れっきとしたプレーなんである。子どもはこども同志で決まりを作り、彼らなりの創造性を働かせて夢中でプレーする。これが幼年期から少年期にかけての貴重な人生経験であるとヘソに誓って断言する。この辺のプレーの原点をもう一度見直さないといけない。子どもがレギュラーになったといって喜んでいる西山口の榛葉さん、3年間ずっと補欠だったと嘆いている上内田の角皆君のお母さん、「たかがスポーツ」だよ。
その13 ションベン臭さと香水の香り
Vol.34 1983.1
あけましておめでとうございます。昭和もなんと58年。最長不倒の年号、昭和か高見山かというぐらい。あの巨漢高見山もあの体でまったく息が長い。ただただ「ものすごい」の一言。昭和60年1月に新国技館が完成するが、何としてもそれまではがんばりたいと言っている。外人に日本古来のスポーツ(武道)の心意気を奪われているようで、少々寂しい気さえする。スポーツのことは以前述べたが、彼は妙な悲壮感がなくて多いに好感が持てるし、教えられる点がたくさんある。ここまで幕内を維持し続ける努力といったら並大抵なことではないにもかかわらず、常に明るさがあの200kgの巨体にあふれている。がんばれ高見山!

さて、中米ホンデュラスからのたよりも1年を越え、途上国の様子もだんだん明確になってきている。以前も述べたが、国全体としてみれば当然貧しいわけだが、中には富んでいる人も結構いる。目をみはるようなナウい女性がアコードなんかを運転している光景によく出会う。日本国内であればアコードなど国産車であり珍しくないことであるが、この国ではアコードもBMWも、全部「外車」なわけで、日本の倍近い値段がする。

そんな一見近代的な街角の光景と所を同じくして異様な臭いが鼻をつくことがある。この匂いが人間から伝わってくるのにはビックリ。町の歩道の一角にしゃがみ込んだり、寝転んだりしている浮浪者(コジキ)の中に、正直ものすごい臭い人がいる。日本でも東京などへ行けばまだ見かけることはできるがかなり限られた場所のことであり、掛川などでは見るも無惨なコジキという者にはほとんど遭遇できないのが現実である。

そんな、日本では皆無に近い人間がゴロゴロしている。一般のコジキはそれ程悲壮感というものが伝わってこないが、見るも無惨というのが身体障害者のコジキ。足を切断していたり、足がサリドマイドのようにほとんどついていないような人が近代的な店のショーウィンドウの前に座っている。こういう人達は帰る家がないらしく夜遅くには新聞紙や段ボール紙を布団がわりに路上に寝ている。11月、12月と日本の秋を思わす涼しい時にはビニールを身体に巻き付けて寝ている。「人間の生にもまったくキリがないなぁ」と、つくづく思うものである。疑う人もいるかもしれないので次回にでも「激写ホンデュラスのコジキ」を載せるとしよう。

お目々パッチリ、プロポーションバツグンのお姉ちゃんたちが香水の匂いプンプンさせて歩いているからわらでションベン臭さがある。日本である種の汚さ、幼さなどを「ションベン臭くて」と例えるが、今ここでいっているのは例えでもなんでもない。そのものズバリの匂いをいっているのであって、おもしろくもなんともない真面目な話しである。

先述したような目をおおいたくなるような人達は街角でポツポツ見かける程度であるが裸足でウロチョロしているガキ・新聞売りや靴磨きをしている少年を見かけるのは日常茶飯事で、ここでは何の変哲もない光景である。こういう少年たちを見ているとスポーツのレベルがどうのこうのなんて申し訳なくて言えなくもなってくる。

例えばバレーボールなどを趣味でやっていられる子どもたちは、私立学校に通える一掴みに過ぎないお金持ちの子弟に限られている。国全体に「自己中心」の考え方が暗黙の常識としてあり、客観的に見れば「異常な格差」と思える現実に対して、上層階級はそれ程に感じていないようである。これが一番困った問題である。こうした恵まれた人達が一様にクリスチャンであることにも小生は納得がいかないのである。
その14 まずは人と人とのふれ合いが大切
Vol.37 1983.4
前回「貧富の差」ということで、実際町で見かける様子を伝え、矛盾点を多少ながら指摘したが、こういう現実を知ったうえでの「国際協力」「経済援助」ということについて感じるままを述べていきたい。ちょっと固い感じがするが、別に固い話をしようとしてるんであって…気楽に読んでもらい、問題意識を持ってもらいたいわけである。

断っておくが、これから述べることで100%日本がよく、逆に100%この国が悪いと言いたいわけではないので足からず。

端的に海外協力隊というのであるから、外国のいずれかの国に何かの形で協力することである。なぜ協力するかといえば、貧しいからということになる。以前も述べたことがあるが「途上国=貧しい」と簡単に決めつけてしまうのは危険である。この貧しいとか遅れているというものはあくまで相対的なものであり、現状では先進国といわれる北側からの比較である。よって作り出されている現実ということができる。我々日本人の生活でも、年収一千万円以上常にある者から三百万円稼ぐ者を見れば貧しいということになる。そこから百五十万円稼ぐ者を見れば富んでいるといえるわけで、自己中心的な観点に立ってみたのでは本当の問題意識を持ったことにならない。

しかし、人間の視野などそれ程広いものではない。私自身も意識がここまで至ったのは一年余りを途上国で暮らしてみてからである。私の活動の中のことでいうと、バレーボール自体の不足。コート整備不足がある。これが日本的感覚で身体中がおおわれている疎か者は「何と可哀想なことよ」と安易に感じてしまう。皮革のボール・板張り床の体育館は今の日本では当たり前のこんこんちき。トレーニングウエアも小学校のガキからオリンピック選手までほとんど差のないものを身につけている。

シューズもバレーはバレー、バスケットはバスケット、相撲は相撲で?各競技ごとに専用のものが揃い、田舎町掛川でも安易に手に入る。というような感覚で途上国を感じ、何か協力してあげようとすると、大切な人と人とのふれ合いを忘れて「物資協力」につっ走ってしまう。これは安易でヘラヘラ喜ばれるが実り少ないお手伝いである。協力を受ける側は経済的に独立できないくらいであるから、あまり厳しく自国の状況も見つめていない。大国への物質的憧れをいだくが、どうして物質的に恵まれるのかという人間の根本的姿勢を学ぼうとしない。

あくまで人間そのものの問題である以上、経済協力とか技術協力とか言っても、常に根底をなすものは、「人と人とのふれ合い」である。相手の現状及び意識をよく理解しないで金や物を与えることは、疎かな物質文明の自己満足に終わってしまう。まずは異文化の人間の精神的刺激を与えることが大切であり、我々みたいなちっぽけな存在である協力隊など一人の人間の「生きざま」を見せ、ふれ合うことが「協力」につながると思う。

問題は現在の日本のように電化製品や自動車が各家庭に備わるようになることではなく、写真にあるような人達がなくなることである。そこを協力する側も協力を受ける側もしっかり認識していないと有形無内容にますますなり、せっかくの協力が貧しい国の富める人の為のものに終始してしまう。おい!中曽根さんちの康弘君、それに米国のリーガンちゃん、大国のエゴにならんよう頼むぜ。
その15 Chino Chino(チーノ・チーノ)
Vol.38 1983.5
まったく訳のわからない言葉で始まった「せんとろあめりかから言いたい放題」、春到来とともにいよいよ狂乱状態になったかと錯覚されるかもしれないが、ここホンデュラスは寒さ知らず、よって年中狂っているのであって、別に今になって突然「変狂」を遂げたというんではない。その点を充分配慮して読んでいただけないと、読者の皆様に多大な迷惑をかけてしまいかねないので…ヨロシク。

そんでもって今回のタイトル「Chino(チーノ)」は、当然意味がわからない方が大半であろう。これ西語の知識なく検討つけた人がいたら、相当語学的頭脳の持ち主といえる。先に一つヒントを与えよう。以前「英西語の比較」をちょろっとやったことがあるが今回も同じ。英語のChinaは知っているでしょう?これ知らない人はもう読んでくれなくていいよ。速く帰って自己嫌悪に陥り、階段に逆さまになって寝なさい。

Chinaとは、我らが日本に歴史上多大な影響を与え、すばらしき日本輸入文化の総発売元の国「中国」のことで、それを西語では同じつづりで「チーナ」と読み、中国人を「チーノ」という。しかし、太平洋の反対側、ましてやまだまだそれ程交流がない中米なので、東洋に対する知識・認識はどえれぇ低い。我々日本人でさえ、中米五カ国をズバッと言える人などきわめて少ないし、その中でも我が第二の祖国?ホンデュラスの知名度は、以前の広島カープのごとく最下位である。よって少しでもPRして知ってもらおうとして原稿を送り続けている次第である。「常夏と明るさといいかげんさが売り物の国ホンデュラスをヨロシク!」

それで、彼らの中には東洋人の区別がほとんどない。全部「チーノ」なのである。現地人でもちょっと東洋的な顔をしていると、チーノというアダ名がつく。ウエストサイド物語にも出て来る。ジョージ・チャキリスがボスのシャーク団はプエルト・リコからの移民で、セリフの中にも多少西語の部分がある。そのシャーク団の一人が小柄で浅黒く多少「吊り目(これが一番のポイント)」で仲間からチーノと呼ばれている。チャキリスがナイフで刺され、殺されたことを妹マリア(故ナタリーウッド)に知らせに行ってすぐ立ち去り、それをマリアが追っかけて行く時、何回となくドデカイ声で「チーノ!チーノ!」と叫ぶ。思い出してくれた人がいたら、おばちゃま本当にうれしいわ。

東洋人的であれば全部「中国人(チーノ)」である以上、我々日本人も当然「チーノ」。女性は語尾のoがaに変化してチーナと呼ばれる。ちなみに日本はハポン、日本人はハポエス(女性=ハポネサ)というが、ほとんど「ヘイ、チーノ」と呼ばれる。現地にいる我々日本人は一様に内心気分が正露丸になるが、バッファリンに考えても仕方がないので、全てアリナミン的に解釈するように心がけている。

もちろんハポン(JAPON=日本)という名前を知らないわけではない。TOYOTA・YAMAHA・SUZUKI・HITACHI・etc…の知名度はバツグンに高い。しかし、中国と日本及び中国人と日本人という区別はなされない。

彼等の東洋人へのイメージは、まず何と言っても「カンフーおよびカラテ」。香港映画は年中上映されており、そのほとんどがカンフー。路上の子どもたちが我々を見ると「チーノ、チンチョンパンチョン…」と言ってカンフーのまねをして見せる。そのくらい映画の影響は大きいといえ、日本も新しく正しい知識を外国人に持ってもらう為に、外務省(大使館)がもっともっと広報活動に力を入れ充実させなければ、いつまでたっても我々日本人は「チーノ」としてしか見てもらえやへんだよ。
その16 チーノとハポネス(外国での中国人と日本人)
Vol.39 1983.6
こちらの生活も今年7月でまる2年。「月日が走馬燈のように過ぎ去り、それはまるで走馬燈のようでした。」という感じ。私は無精にも大学生生活を6年もやり(断っておくが、今はやり?の留年で長くなったのではない。編入というやつである)、「小学校ですら6年も行くんであるから、最高学府の4年生はちょっと短い」なんて思ってもいる。ここでの2年が走馬燈のようであると感じると、自分の大学生活と重複させて、短大の2年というものの短さを痛感する。もちろん長さだけの問題ではないが、終了の時の近づきつつある現地(ホンデュラス)での活動を考えると、事を成す為の2年という期間の短さを痛感せざるを得ないのが本音である。「石の上にも三年」とはよく言ったものである。

しかし、一種のボランティア活動としてやっている以上帰国せざるを得ない。本音を言えば、常に帰国したい心境にかられている。ただ現地生活が嫌いで、祖国が大好きというのではない。この心境はやはり外国生活をした者でしかわからないことであろうが、たとえ現地生活に順応できていても、生まれ育った祖国の土の香りが心身に染み込んでいて、なかなかこれを取り除くまでに至らないのである。ふとした時に好きな食べものの香りを思い出したり、思い出深いあるいは愛着のある情景を思い出したりすると、「ああ日本」という思いにかられ、少し冷静になって「まだ裸になりきれて切れていない、修業が足りん」と多少自己嫌悪に陥りもする。

概して日本人は「国」ということの自意識が過剰であるらしい。よく「島国根性」と言われるが、四方海に囲まれ国境を有しないので、外国という概念が大陸の人間とかなり違う。つまり非常にはっきり区別したがり、ある意味で非常に閉鎖的である。逆にはこれが結束の固さにもつながり、組織作りのうまさ・治安の良さ等にもつながっているといえる。外国へ勢いよく飛び出している小生のような者でも本音は述べたような女々しいものであり、協力隊の仲間と接していてほとんどの者が「祖国への執着」を持って生活している。

そこへいくと、顔だちはあまり変わらないがチーノ(中国人)は我々とはかなり違う。世界をまたにかける華僑という?くらいで、こんな世界の体制からは見放されそうなセントロ・アメリカにもしっかり根をおろして生活している。日本人はただ仕事の関係で滞在しているに過ぎない。ちなみに昭和53年最初に来たときいた日本人の顔ぶれは、現地人と結婚され現地今業で働いている一人の協力隊OBを除いて全て替わっている。彼以外で根をおろしている日本人といえば、カメラ屋さん一家(夫婦とも日本人)、空手の先生1名、脱サラで現地人と結婚した人、大使館の秘書の女性(現地人と結婚された)ぐらいである。

もちろんここホンデュラスが定住するのにあまり魅力的ではないことも否定できないが、中国人の進出を見る限り民族の相異をまざまざと見せつけられる思いがする。日本と違い広い大陸に育ち、まして祖国は貧しい生活をしいられてくれば、否応なしに「生きる」為の根性が厳しいものになり、日本人的な「見知らぬ外国を体験して国際感覚を身につけたい」という生温かい発想など出る余地はないのであろう。

日本の中都市くらいの規模しかない首都テグシガルパの至る所にある中華料理店や中国人食料品店を見て、現地人にはまったく区別がつかないチーノ(中国人)とハポネス(日本人)の本質的違いを痛感している。すごいと感じはするが、やはり小生も人並みの日本人。幕の内弁当の味と祭り囃子の音がどうしても忘れられない。
その17 ハポン(日本)とハポネス(日本人)を思う
Vol.41 1983.8
!Hola!? Que tal? Estoy nuy bien もう余分な説明はしてあげない。日本語でいえば「お〜い元気かぁ?俺は元気だぞぉ」ということ。78%の読者の皆さんくらい、どうかひとつ、これくらい雑学の片隅に覚えていただきたい。読み方は「オーラ!ケタル?エストイ ムイ ビエン」

いやぁ今年ももうすでに折り返し。日本ももう夏。「日本の夏、湿気の夏」というくらいで、ジメジメ暑いのが特徴。学生時代の地理の勉強をちょっとばかり思い出してみよう。日本は南北の一部を除いて大部分が「温帯湿潤気候」というものに属している。よって日本文化自体が「湿気の文化」といえる。

この「気候と文化(生活様式や物事の考え方」)というものは非常に関係が深く、実に興味深いものである。まして小生のように外地それも地球の反対側で、気候的にも日本の「湿」に対して「乾」の所で生活しているといろいろと感じることが多い。前回は「チーノ(中国人)パワー」なることで述べたわけだが、今回はできる限り客観的に捉えようとした日本及び日本人ということで述べてみたい。もう外地生活も約2年、少しは自分自身のことも客観視できるようになってきたと感じているわけである。

上述したように、「湿」の国から「乾」の国へやってきて、我々日本人の持つ「湿」のよい面も悪い面も自分なりにいろいろ感じている。「湿」とか「潤」とかいうものをいい意味で形容すると「しっとり」といえ、逆に悪い意味では「じめじめ」といえる。「しっとりと潤いある肌」なんていえるくらいで、日本女性の肌はまったくもって美しい。ずっと前「おんなの話し」なんて題でもお話ししたことがあるが、こちらの女性(ラテン系)は彫りの深さは抜群だが、肌はカサカサで魅力が半減してしまう場合が多い。

他の例をあげれば「米のねばり」が印象的。これもこちらでパサパサの米を食べて初めて痛感したことである。「しっとりねばり強く」など日本及び日本人を賞賛している形容といえ、自分もこういったことは大きな誇りとして持ち続け、それに恥じない行動をしたいものである。

さて、同じ要素が逆に出ると上述したように「じめじめ」になる。つまり「陰湿」とか「陰険」という性質のもので、賞賛すべき部分と裏表に我々の体内にはびこっている。スパッとまたカラッとやってしまう言ってしまうべきところをえらく遠回しにするところがある。さだまさしやアリスに代表されるあの女々しさ100%の歌はこの「じめじめ」した部分の象徴的あれわれといえる。妙に意味深で重苦しい。悲劇を装う。こうした部分は真の大和魂を持った日本人には絶対ない。と批判してみても、こういった恥ずかしい要素を自分の中でも感じている。どうかこの機会にカリブ海のカッと照りつける太陽とカラッと吹く浜風で、こびりついた「じめじめ」を少しでも取り除いて帰国したいものであると願い、もう一時(いっとき)せんとろあめりかで精進してみるとする。Hasta Luego!(アスタ エルゴ)じゃあ、また!
その18 地方巡回指導の旅
Vol.42 1983.9
暑中お見舞い申し上げます。日本の夏は湿気の夏、照りつける太陽がジリジリという感じでどうしてもジメジメしたものになってしまう。そこへ行くとこちらは夏の専門家、いくら日本が経済大国で兄貴分のアメリカを脅かすほどの力といっても、事「夏」に関してはホンデュラスに刃がたたない…ハハハざまあみろ!

夏の専門家ホンデュラスといっても、内陸地と海岸地方ではかなり違う。この国は北海道より二回り程大きいほどの小国だが、内陸部は山岳地帯が多い。海抜も二千メートルを超える所がかなりあり、一口に「山国」と言うことができる。ちなみに私の住まいのある首都テグシガルパも海抜千メートルに近い高地にある。海岸地方でもすぐ近くまで山がせまっており、純粋な意味での平地は皆無に等しい。平地の所でもほとんど盆地という形で存在している。

そして私はmここでの活動の締めくくりをする今年、首都から飛び出して地方巡回の旅に出ている。地方巡回といっても芝居のドサ回りではないし、ジュリーの全国縦断コンサートでもない。全国に10校ある小学校教員養成校へバレーボールを体育教育の一環として普及する為に巡回しているのである。

2月28日グッアテマラとエル・サルバドルの国境に近い町ヌエバ・オコテペケで巡回のスタートを切って、6月上旬までに5カ所(5校)を回り終えた。回った5カ所のうち4カ所が山中の町。町といっても菊川や金谷より小さいもので、日本流には「村」と呼ぶべき程のものである。といってもそれら4カ所は各県の県都なのであるから、この国の規模というものがどれくらい小さいものか想像してもらえると思う。

こんな田舎へ出向く為の交通機関は全てブスである。(西語ではバスのことをbusと書いてブスと発音する。)このブスにトレーニングウエアや辞書をつめ込んだバックとボール・ケース2個を乗せて赴くわけである。赴くといっても日本の道路のように整備されているわけがなく、そりゃガタゴトガタゴトとローカル鉄道もまっ青な程楽しいものである。

道路もバスもほとんど二流か三流、加えて山道、掛川周辺で考えれば、原泉や森町の奥の気多(今で言う春野町)へ行く道を想像してもらえればよい。もちろん舗装なんてとんでもない。回った道中の半分近くはまだデコボコである。よって距離的にそれ程でなくても時間はかなりかかる。首都からだいたい8〜10時間は必要な所ばかりで、第2カ所目のグラシアスという町へは、二回バスを乗り換えて12時間を要した。しかし、これも奇跡的に乗り換えがスムーズにいったためであり、普通では14〜15時間はみておかなければならない道中である。15時間あれば、成田空港を飛び立ったジャンボジェットならカナダのバンクーバーを経由してメキシコまで来てしまう時間なのである。

この巡回の対象としている小学校教員養成校は中学校終学後入学可能であり、日本の高等学校レベルに位置している。よって高校生を対象にバレーボール講習会を開いているわけである。以前「おんなの話」ということで述べたことがあるが、ここの女性は早熟で早老。でから中学から高校にかけてくらいが一番の見ごろ、桜に例えれば「八分咲」というところ。どんな田舎に行っても花のようにかわゆい子はいる。物質的にたいして恵まれていなくてもみんな明るく元気に暮らしていて、海のかなたからやってきたバレーボールのヘボコーチを「Hola!MASAO」と歓迎してくれる。まったく人類は平等にできていてうれしくなる。次回は彼らの生活ぶりに触れてみたいと思う。Adios!
その19 地方巡回指導から海の町、山の町
Vol.43 1983.10
先月号でお知らせした巡回指導のこと、今月も引き続きお伝えする。もう日本は秋。最初の予定なら、もうすでに帰国の途についており、二年さぼっていた祭りへむけ胸躍る毎日を郷里掛川でしているわけなのに、実際にはまだせんとろアメリカでHola!Que tal?なんてやっている。屋台や太鼓には「すまない、勘弁してくれ、おまえたちを愛するこの気持ちは物心ついた時から今の今まで全く変わっていない」と言いたい程つらい気持ちでもある。78%のスタッフの皆さん、あたくのオフィスの裏に我が町連雀の屋台小屋があるので、ちょっと伝言だけ伝えに行って来て下さいっスよ。

さてさて話は掛川からアメリカ大陸に戻そう。中米ホンデュラスでの活動もそろそろ終わりの時が近づき、先月号で述べた地方巡回も一応8月20日、ニカラグアとの国境に近いダンリという町の小学校教員養成校を最後に無事終了した。2月28日第一カ所目で開始して半年近くをかけて合計10の町で高校正を対象にバレーボール講習会を行ったわけである。この巡回を理容師て立ち寄った町もあり、それらも含めると15くらいの町を訪問したことになる。

この中で「海の町」と呼べるものが6つ。このうちカリブ海に面した町が4つ、カリブ海に浮かぶ島が2つ。そして反対に「山の町」と呼べるものが4つある。他の町は掛川のようなもので、どちらにも属さない町なのでここでは眼中に入れないとする。北海道より二回りくらい大きいという程の面積しか有しない小国ホンデュラスではあるが、やはり海の町と山の町とでは雰囲気にいろいろの違いがある。

小生は以前からカリブ海へは一種の憧れをいだいていた。それは音楽を通してで、大きくは「ラテン音楽」と呼ばれるものであるが、このカリブの島々には非常にリズミカルな音楽がいっぱいある。最近は日本でもかなり知れわたっているレゲエやサルサはカリブの島国ジャマイカやプエルト・リコなどが発祥地である。キューバにはマンボやチャチャチャといわれるリズムがあり、他にドミニカのメレンゲ、トリニダード・トバコのカリプソと陽気そのものの音楽がコチャマンとある。

「せんとろアメリカもカリブ海を囲む地域だし…ウムこりゃ楽しい音楽と出会えるぞ」と思いきや、首都テグシガルパや他の内陸の町々ではあまり耳にすることがない。ラジオやジュークボックスから流れるものはアメリカのポップスかスペイン、メキシコあたりの西語の歌(流行歌凡)が主流で期待していたカリビアン音楽はあまり耳に達してこない。だから町の雰囲気も「カラッと陽気でエネルギッシュ」というには程遠い感が強い。

最初の巡回地4カ所は全て中西部山岳地帯の中にあったし、5月21日カリブ海側最大の町ラ・セイバのカーニバルに参加し、そのまま第5の巡回地である隣町テラへ乗り込み、やっと憧れていた雰囲気の一端を感じ取ることができた。酒場などから流れてくる音楽はレゲエが主流で、夜遅くまで活気に満ちている。南国の太陽・砂浜にわがもの顔で立ち並ぶヤシの木、そして多くの黒人の姿と描いていたカリブのイメージのいくつかの条件を充分満たしてくれた。食べものも内陸のとうもろこしの粉から作るトルティーヤ主体と違い油で揚げたバナナが多い。

海と山は対照的地理条件であり、どこでもそれによっておりなす生活様式・土地の雰囲気は異なるものであるが、小生なりに感じるところでは、日本のそれと比べ、ここホンデュラスでの差異はもっと大きい。それは日本の場合、たとえ地理条件の違いは明確にあるにせよ、同じ民族が作り出すという共通性があるが、ここせんとろアメリカ・ホンデュラスでは、山の生活の原形はインディオのもの、海(カリブ海)は黒人のものという民族としての絶対的差異の上に成り立っている。
その20 エピローグ 力説ボランティアスピリッツ Vol.45 1983.12
'83年も残すところあとわずか。秋祭が終わると冬がかけ足でやってきて、12月は「師走」と書くようにアッという間に過ぎ、恒例の(マンネリズムの横綱)紅白歌合戦→ゆく年くる年を最後に新年を迎えることになる。

いよいよ私もこの頃には読者の皆様と同様遠州掛川にいることになる。ということはいよいよ「せんとろあめりか(中米)」から脱出をはかり、祖国「日本」へ凱旋?するというわけ。'81年7月29日に中米ホンデュラスにやってきて以来約2年5ヶ月ぶりの帰国となるわけで、帰国まであと2ヶ月を残すだけとなった現在、「久しぶりの祖国の顔が見られてうれしいが、感覚的にもうかなりズレてしまっていそうで、そのギャップが何となく恐ろしい…」という心境でいる。

それでこの「せんとろあめりかから言いたい放題」も読者からの絶大なる好評を得ないまま、年の終わりでもあり帰国を間近にしていることもあり、ちょうど区切りがいいので、副題にあるようにエピローグ(結び・納め口上・終曲・最終回)とする。第一回「プロローグ」を'81年12月号に載せていただいて以来、時々めげながらも、一応まがりなりにもエピローグの時をむかえられたのも、小嶋政男氏ただ一人の励ましが常にあったおかげと心から感謝している次第…ナンチャッテ。

                   最終回

太平洋の反対側にいることをいいことに、「言いたい放題」なんていう書く側にとって最も都合の良いタイトルで勝手気ままに自己主張をしてきたが、それも今回がラスト・チャンス。現時点で言い残すことのないよう「いいたい放題」させてもらうとする。

第一回目の「プロローグ」で紹介させてもらったように、私は青年海外協力隊の派遣でここ中米ホンデュラスにバレーボール指導にやって来た。通常の契約は2年であるが、私はこの協力隊と昭和53年(1978年)4月からかかわり始め、6年近い年月をへてやっと終止符を打とうとしている。これには単純明解な訳がある。

最初は6ヶ月の技術及び語学訓練を終え昭和53年10月同国に着任した。しかし、着任後3ヶ月にも満たない同年12月24日に交通事故で右大腿骨を複雑骨折してしまい、現地で手術を受けた後、検査して機能回復訓練(リハビリテーション)の為、松葉杖と車椅子の助けを借りて翌年2月中旬一時帰国。東京船員保険病院でレントゲン検査、地元掛川の渡辺整骨院で機能回復の為マッサージとトレーニングを受けたのであるが、骨の回復が予想以上にはかどらず、最終的に主治医から「復帰OK」のサインが出たのは一時帰国から約2年後の昭和56年1月。

もうこの時点では最初の契約2年は消滅してしまっており。再度要請を取り直して手続きを進めなければならなく、結局復帰は同年の7月となってしまった。この時ほど「なんという超お役所仕事」と感心させられたことはない。資格も相手国の要請も実際には継続しているのに、また新たに手続きを始めなければならない丁寧さと複雑さにはただ脱帽するのみであった。

結局最初の赴任、事故、療養、再赴任という過程をへて、通常より3倍近く協力隊のメンバーであり続けてきたわけだが、この協力隊とかかわる中で一番頭にこびりついてきたのは「ボランティア」ということである。なぜならこの協力隊活動は一種のボランティア活動と銘打って行われているからである。この「ボランティア」という言葉、日本でも一般化しており、読者のほとんどが耳にした経験をお持ちであろう。

そして日本では一種の「奉仕活動」という意味で解釈されていると思う。無報酬でいずれかの公の事業に参加する、例えば公園の清掃とか老人ホームや療養所のお手伝い、というイメージが強い。しかし、こういう類のボランティアというものに対してあまりいいイメージを持っていなかった。なぜなら「自分自身の意志」として「何気なさ(ただ好きだから)」が欠落していると感じられるからである。

ボランティアという言葉、カタカナで書くように、氾濫気味の外来語の一つである。
英語のvolunteerで辞書をのぞくと、名詞として「志願者・有志者」と最初に出ている。そしてこの派生語voluntary(形容詞)を見ると語の解釈のところに「外部の影響あるなしにかかわらず、全く自分自身の自由な意志による:」とある。(研究社 新英語中辞典より引用)この解釈は私にとって、化学的に殺菌されたカルキの強い水を飲み慣れている中で冷たく新鮮な井戸水を口にするような清涼感を精神的に味わせてくれるものであった。

こうして考えてみると、やはり一般的な日本での「ボランティア」というものは、本来のあるべきスピリットから離れたところで理解されているといえる。いまここでその誤解への批判などどうでもいいのであるが、「有志・束縛されない自己の自由意志」ということをここでじっくり考えていただきたい。一見カッコよく誰にも歓迎されやすい文句であるが現実には憧れや理想の域で終わらせている場合が多い。

私のホンデュラス協力隊の仲間で10年の教師経験を経て、その立場を捨ててまで志願してやって来ている男がいる。その彼が時々嘆くように話してくれるのであるが、出発前、もう成人した教え子たちが「先生、好きなことがずっと続けられていいですね」なんて言ったそうである。彼よりも10才以上も年下の二十歳そこそこのもうそれこそ何をやっても許され、それを許容できる体力を充分に有している時にある者が何たる軟体動物的精神で日々を暮らしていることであろう。

生活がどんどん便利になり、物質的にどんどん豊かになっても、人間は精神的充実感を満たし切れないどころか、ある面でますます「欲求不満」になってしまっている。それは便利にしてくれ、経済的に豊かにしてくれた社会のせいではなく、己の意志のせいである。つまり自分自身のボランティア・スピリットのあり方に問題があるのである。精神など自分自身だけとのかかわりの中で生きているのである。もちろん他人とのかかわり合いも関係してくるが、それはあくまで二の次である。

最後に一つこの問題の提起において「己惚れ」させてもらう。正直この意味のボランティアということで自負している。まだまだ己の軟弱さ・不充分さは常々感じてはいるが前述した若者のような「己の存在が不明確な憧れ」は持っていない。何も自分の存在や行動を他人から賞賛されたい気持ちは毛頭ないが、自分のやりたいと思ったことを自分のボランティアでやっているということは、今の立場が将来的に不安定であろうが胸をはって断言できる。だから、今年三十路へ突入し一般的には若者と呼ばれない世代になっているが、ボランティアということでは俗に言う若者に決して若さ負けしてないと自信を持っている。

「生きる」ことに何の目的もないが「楽しく生きようとする」ことには価値がある。この価値は誰の為のものでもない自分自身だけのものである。そして、楽しくできるか否かは全て己の「意志=ボランティア」にかかっているのであって、各自が勝手気ままに生きている以上、誰もプレゼントしてくれない。

さあ君も今から自分を叱咤激励して、タモリじゃないが「ボランティアの輪」を作ろう!でも自分一人だ。そして皆んなの好きな友情や恋愛も全て「ボランティア精神」の土台の上にしか本来は存在しないんであって後回しにしなさい。これがちょっとだけ先輩の小嶋政男の今一番力説したい事。 以上

長らくのご静読グラシアース!完