いま甦る幻の原爆文学「あの日のこと」

美川きよ

本名:鳥海清子 小説家、1900年神奈川県生まれ、大阪府立大手前高女卒
ここに掲載された「あの日のこと」は、1982年8月6日号の朝日ジャーナルに掲載されたものです。掲載にあたり、美川きよさんが入院中のため、ご子息の美川英吾氏にこころよく許可をいただきました。なお、文中の漢字で旧字体のものは新字体に直してあります。(1982年9月78%掛川タウン誌第30号に掲載) 
掲載にあたって                      78%編集長 永倉章

日本の敗戦後1946年8月「女性公論」に掲載予定されていた原爆被災をめぐる美川きよさんの小説「あの日のこと」は、当時言論統制を行い日本人の間から情報を吸い上げる目的で組織された占領軍の秘密機関CCD(民間検閲支隊)に発禁処分を受けたうちの一つの短編小説である。
戦時中には日本軍による思想統制や検問の被害を受けた国民は、再度「言論出版の自由」の表看板にだまされ、1945年8月6日に広島、9日には長崎に投下された原子爆弾の事実や真実を知らされなかった。検閲は4年間続いたという。
現在はどうであろうか。文部省の教科書の検閲制は、資本主義純化の思想統制、政治家や日本軍や財閥そして天皇が戦前戦中に行った非人間的行為も事実を曲げるように指導している。
静岡県内の大手地方新聞に、日本は防衛費(軍事費)をもっと多くすべきだ…。という内容の社説が堂々と掲載されている。全国的な新聞にも、(平和への)方向性の誤った事が掲載される。日本政府は前向きに軍拡に取り組んでいる。そして、世界に核兵器が蔓延している。書けばきりが無いが、このような中でマスコミの情報が正確さに欠けるため、私たちは正しく知る権利さえも取り上げられてしまっていることを覚えておかなくてはならない。
今、反戦反核が世界各国で叫ばれている。私たちは唯一の被爆体験国民として、また侵略戦争で多くの人間を殺害し侵略をしてきた国の民として、日本の軍国主義化と軍拡、世界の核兵器開発には絶対に反対しなければならない。(1982年8月某日)


                  あの日のこと

                    美川きよ


                      一


母上様
 度々おたより頂きまして有難く存じ上げます。まことに長々と御無沙汰致しましておわびの申し上げやうもございませぬ。不断からこちらの様子を時々お知らせ致さねばなりませんところ、空襲やら移転やら何や彼やとりまぎれましてついつい失礼しましてお許し下さいませ。
 この度の原子爆弾につきまして皆々様が色々と御案じ下さいましてありがとうございました。早速こまごまとお知らせ致さなければなりませんのに、あまりにも悲惨な有様と、子供をむごたらしく殺された打撃とで何も手につかず、あの日あの時からどうして過ごしたかわかりません。
こちら(出雲)へ来ましても八月六日を思ひ出すのが恐ろしくて、あの日の情景を記された心のペーヂはのぞくのもさわるのも気味わるく自分で自分の心から逃げまわるやうなありさまでございました。
 夏雄のことを母上様にお知らせしなければと思ひながらくわしいおたよりを書けば彼の子の事がいっそう哀れで、頭がくらくらしてペンを取る気持ちにはどうしてもなれませんでした。
 皆様からおくやみのお手紙頂きながらどなた様へも御返事も申し上げず、失礼の次第母上様よりよくよくおわびして下さいまし。
 でも、少しづゝ少しづゝどうやら私の気持ちも落ちついて来たやうでございますから何卒もう御心配下さいませんやうに…

 八月六日はとても快晴で一点の雲もありませんでした。
 お父さんは七時頃会社へお出かけになりました。
 いつもはお父さんと一緒に出かけるのに、どうしたかと彼の子の部屋をのぞくと、窓際の机の前の椅子にボンヤリ腰かけてゐるのです。ひどく疲れ気味の身体つきなので、
「具合がわるいんぢゃない?」
 とたずねますと、
「ううん」
 さう云ってハッと気がついたやうにゲートルを巻きはじめました。
「今日は暑くなりさうだし、大分疲れてるやうだから休んだらどう?」
「うん、でも今日で勤労奉仕もおしまいだし三時頃帰るから…大丈夫だよ。どうもないよ。」
 と元気さうに云って心配性の母を笑ふやうな可愛い眼つきをしました。
 私は彼の子が玄関で靴をはいてゐる側にしゃがみこみながら、ふっと、
「おまへはこの家の番地を知ってる?」
 と聞きましたら、
「三丁目四番地?」
 なんて云ふので、
「まあ、そんなでたらめ云ってホホ…だめよ、一丁目六番地よ、え、一丁目六番地よ、バカねぇ、自分の家の番地も知らないで…」
 この家へ越してきて未だ十日目でしたので、自分の家の番地もまだ気にも止めてゐなかったのでせう。私が念を押して、
「云ってごらん」
「一丁目六番地であります」
 兵隊さんのやうに復誦して出かけて行きました。が、何となくいつになくぼんやりした様子や、そのうしろ姿がどうにも変に寂しげでいっそ引きとめようかと、あの子のあとを追って格子外に出て、二三歩往来に出ましたが、朝陽がキレイに道を照らしてゐて、その滑らかな道をふりかえりもせずにとっとっと歩いて行くあの子の姿はたちまちに声をかけさせぬ遠さに逼(へだた)って行ってしまひました。明るい陽の色が、既に死の陰のにじみでてゐた夏雄の姿を塗りかえて私の眼をくらましてしまったのではありませうか?
 あの子が、自分で知らずして不吉な蔭を宿し、私があるかなしのその不吉な色におろおろとまつわりながら、如何とも人力で致し得なかったところに、十六歳で消える命が定まってゐたのでありませう。でも、母と子のあれが永遠の別れであったかと思ふと泣けてまいります。



                    二


 お父さんと夏雄を送り出してから間もなく警戒が解除されましたので、髪を梳かうと表の部屋の鏡台の前に座った時不意に敵機らしい爆音がしますので空をじいっと窓から見て居りますと、そのとたんでした。ピカッと青白い光で眼がくらみました。ハッとしてお向かいの屋根を見ますと白黄色の煙が軒のまわりから吹き出しましたので焼夷弾と思ひ奥の方へ逃げかけると、まるで地震の様にガラガラと家がゆれ出し、襖、障子、天井板、窓硝子、箪笥、部屋のあらゆるものがつむじ風にあふられた用に渦巻いて飛びかかって来ます。
 爆弾で家がやられたと考へ、もう駄目と観念しながらそれでも例れかかる襖障子道具の上を飛び越えて夢中ではだしのまま防空壕へ逃げこみました。

 大阪から焼け出された私の弟夫婦が子供を連れて泊まって居りました。私とねえやと、弟と妹と子供の六人はかすり傷一つなく助かりましたが、お父さんと夏雄の事がさあ心配で気が気でなく表へ出てみますと、附近の家は全部屋根の瓦が飛び散って二階が全部とんでしまったのや、七分まで倒れたのや、つぶれて土けぶりをあげてゐるのや、私の家も半分以上壊れてしまひました。
 市内の中央には幾十丈とも知れぬ灰白色の煙のやうなのが吹き上がって、二三ヶ所もの凄い黒煙が渦巻いて火の手がメラメラ舞い上がってゐます。

 宇品の空は何ごとも無いので、お父さんはたぶん大丈夫と思ひましたが、夏雄はもしかしたら駄目ぢゃないかと、表を走っていく人に聞くと、広島駅は全滅で人も全部即死、夏雄の居る所は中央だから一番ひどいらしく消息不明でと云はれもうぢっとしてゐられません。
 市内は火の海だと云はれ行くことも出来ず、御近所のやはり学校で奉仕に出てゐる親御さんたちが皆より合ってどうすることも出来ず只うろうろしていますと、血だらけの人や、やけどした人が担架でかつがれて来るし、歩ける者は血を流しながら逃げて来ます。

 お昼近くお父さんが帰って来て呉れてホッとしました。
 家の中は土壁が吹きとんでしまひ、鏡台の硝子や窓硝子が柱や壁に植えたように突き立ってゐます。よくまあこの中を逃げて、怪我もなく生きてゐる自分がほんとうに不思議に思はれました。
 午後になっても夏雄は戻らないので、兎も角女の足では行けませんので、お父さんが一人行けるところまで探しに行きましたが、一面の火の海で、火の落ちるのを待つよりせんかたなしと仕方なしに無事を祈りながら帰宅致しました。表八畳と玄関とだけしか残らず、それとても完全ではありませんが雨露はしのげます。
 電気はつかずラヂオも駄目、サイレンも鳴らずそれに又空襲です。
 まっくらな中で夜が更けてからでも彼の子の足音が聞えはせぬかと聞耳しながらまんぢりともせず待ち明かしました。

 夜明けを待ってお父さんが夏雄が学徒動員で働いてゐる工場へ行きました。七日の朝です。
 私は家で何処からか彼の子の事を知らせてくれるか、連絡が取れるかそれともひょっこり無事でお父さんの留守へ帰って来るか、或いはお父さんがつれ帰るかと、さまざまに心は馳せめぐり、たとへ生きてゐても市内の中央にゐた者は無傷である者は一人もいないとのこと故何処かの病院にでも収容されてゐるのかとも思ひましたが、どれもこれも駄目でした。
 お父さんが帰っての話は次の通りでございます。



                    三


 お父さんが工場へ行き、社長や工場の人に逢っての話では、爆撃された直後三年生一組五十八名が十人五人と組になって、火の無い方(山手へ)或いは工場へと逃げたらしくみんな全身或いは上半身やけどをしながら夢中で走ってゐたようです。彼の子もお友達十四五人と一緒に走ってゐたさうですがはぐれてたった一人になり三條(みさき)と云ふ畑の中の一軒の小屋があり有名な(一文字可読不可)大佐の兄様が疎開して居られました。夏雄は小屋の側まで来てその方の姿を見て安心したのか倒れてしまったさうです。
 その方が抱き起こして小屋の中へつれこみ大変なやけどですが、薬とてないので畑の胡瓜をもぎってその水をぬって介抱して下され、住居をたづねると、翆町翆町と云ふのですが、火の中をどうすることもならずそっと寝かせて置き様子を聞くと、一中の生徒、動員学徒として航空会社で働いてゐることがわかり、すぐにその方が工場へ知らせて下さいました。夕方五時頃工場からゴム輪の車で四五人の人が迎えに来て工場へ収容したさうです。
 学徒はその時、夏雄の外二三人しか来て居らず工員が逃げ帰って収容されて居り、同じに動員されてゐる女学校の先生が看護をして呉れたそうでございます。

 私もその女の先生におめにかゝり彼の子の最後の様子をくわしく聞かせていたゞきましたが、先生は、
「お宅のお坊ちゃんはとても立派な最後でした。意識はハッキリして余り苦しまず先生すみません、僕はこの位のやけどではへこたれません。もう一度よく働らいてお国のためにつくしますと云ふて、家のことや御両親のことは一言も口になさいませんでした。
 夜半の二時頃先生胸が苦しいからすみませんがさすって下さい。そして吐きそうですから何か吐くものを貸して下さいと云ふので、器をやって背中を撫でてゐると、もう結構ですから他の人を看てあげて下さいと云ふので、しばらく坊ちゃんの側を離れ今度来て見ると水様のものを少し吐いてようく眠ってゐられたので、そっとそもまゝにしてもう一度三時頃見廻った時にはまだたしかな呼吸をしてゐられたのですが、四時頃来た時にはだめになっておられました。」

 空爆下のまっくらな山の工場で、たった一人たれも側に居らず、淋しく死んでいったのかと思ふと可哀相でいじらしくてたまりません。私の五体がもぎとられるやうな感じがします。
 心臓麻痺でも起こしたらしく死顔は眠ったやうで、口許をかるくむすんだままの安らかさがせめてもの母の眼には救ひでした。
 顔全体焼けて大分ふくれてゐましたが鼻の先に少しかすり傷がありました。逃げて来る時川を横切って泳いで渡ったさうですから陸地へ上がる時すべり落ちてすりむいたのでせうか。
 彼の子の一組五十八人の中、生き残ったのは二人です。その二人もやけどをして居られましたからその後どうなりましたことか…。

 夏雄はどうやら工場へたどりつき、介抱を受け、棺にも入れてもらへましたが、他の子供たちは逃げる途中力つきて道路に倒れたり、学校の運動場で折り重なって亡くなり、そのやけどの上を夏の太陽にじりじりと照りつけられ赤茶色に皮膚がめくれ、その気の毒な亡骸を土とほこりがまみれ汚してそれはそれはむごたらしい死に方でございました。親たちが狂乱の姿で吾が子を探し求めるさま、死体を背に負う親、まるで地獄絵そのままでありました。

 七日の晩はせめてお通夜をと部屋へは入りましたが四つ程の死体ですが臭くてとてもゐられず、工場の庭で夜空の下で夜をあかしました。その庭にも工員の死体がごろごろと置いてありとても臭くお通夜をしたのは私と友達のお父さんだけでございました。
 他の方は死体の行方もわからず狂気ひのやうにまだ燃え残りの市中をたづね歩いてゐました。火傷はとても水が欲しいそうとか、学校の庭などで苦しみながらお互ひに助け合って、足の立つ者が水をくみ合ひ、名を呼び合ひ、軍歌を叫びつゝ死んで行くのを見た方もあり、そのやうな悲惨なお話しに比べれば静かに息を引き取り父母の手で葬られた夏雄はあきらめるべきなのでございませうが。

 八日の朝は焼き場が無く、人手も無く、工場の裏の芋畑をめいめいの肉親が掘って、夏雄も親友と同じ穴にならべて棺もお父さんと私とでかついで埋め、油をかけて焼きました。二時頃まだ火がありましたが、お骨を拾って持ち帰りましたが私共はまだ初めであったので。油も薪もたっぷりございましたが、それでも半焼きの子もあり素人のする事故後になるほど棺も無く裸のまま焼くとかでお気の毒でございます。
 お骨を抱いて帰る途はまだ火が残ってゐてとても熱く、足許には腕や足がころがっており、泥まみれのままの焼け死体が積み上げられてあるし、川の中には木片と一緒にさまざまな形で屍が浮いているし、川の土手には山のやうに積まれ、肉親がその一つ一つの顔を調べ歩いてゐました。
 鼻をつく異臭、土ほこりと、煙と、腐敗しかけた死臭とそれはそれは何と申してよろしいやら到底筆や言葉では現せませぬ。そのやうな中を二里近く歩いて日ぐれて我が家にたどりつきましたが身も心も打ちひしがれてただ呆然としてしまひました。
 余りのむごたらしい情景に恐さも忘れ行き交うふ気の毒な方、ころがっている仏様に手を合わせながら歩きました。

 母上様も御存知でいらっしゃいませう。家から十間ばかり先に病院がございましたでせう。あの病院に運び込まれる人がどんどん亡くなり、毎日毎日朝も昼も夜もその屍を焼く煙が、戸も障子も無くなった私の家の中へ吹きこみ、その部屋の中で食事をしたり致しておりましたが十五日までに罹災者は広島を出ないとチッキを取りあつかわぬと聞きとてもこの焼土では隣組も配給所も全滅で食料は軍からのを一日づつ受け取りに行かねばなりませんし、とにかく恐ろしいことのみにて生きた空も無く持てるだけの物を持って死にもの狂ひで広島を発ちました。
 汽車の中で終戦を知りましたがもはや死人の煙の中で生活する心にはなれず出雲へまいってしまひました。



                    四


 ねえやが親切に私どもを自分の親の家へ連れて来てくれました。ねえやの親たちも兄夫婦もまことに珍らしいほどに良い人たちで心からの世話をしてくれました。
 食料も何彼と気をつけて下され、家がありませんので思はず長々と厄介をかけて居ります。
 お父さんも会社をそのままにして来ましたので、それも気になり、九月一日に切符がやっと入手出來ましたので二人で広島へまいり、会社のこと、荷物の整理など致し五日に当地へ帰りました。あの日から一月にもなりますのにまだ屍を焼く煙でくさくてたまりません位でした。折悪しく雨天つづきで駅で夜明かししたり、雨にぬれたり、今までの無理と、心配と、打撃が一度に重なってとうとう私は病みつき高熱がつづき全く弱り果ててしまひました。

 彼の子の四十九日には、私は起きられませんのに、ねえやの母親がおもちをついてお坊さんを呼んでくれました。
 あの子のことはつとめて忘れるやうにして居りますが、ハーモニカを聞くと思ふし、口笛を聞くと、もしやとふりかえるおろかしさはどうしやうもございませぬ。昼でも夜でも思ひ出すとたまらなくなりウロウロしてしまひます。
 夢を見るのがたのしみで夢を見ない翌日はがっかりして居ります。
 父上様の御命日と同じ日なのでおまつりも一緒にして居ります。可愛がって戴いたおぢいさまの御膝の上であのほがらかな歌をうたっておぢいさまをよろこばせてあげているのではないのでせうか。

 私どもと同じやうに広島だけでも三十万人一ぺんの原子爆弾で亡くなりました。今度の戦争で日本は二百万人の人命が失はれました。世界中の失はれた人の数は恐怖すべき数字です。何故戦争があるのでせう。戦争の好きな人たちの為に戦争で利益うぃ得る少数の人達のために、善男善女、まして幼い無垢な生命が殺されてゆくのはどうしてもどうしてもたまりませぬ。
 平和な人たちの美しい世界は、人間界にはのぞみ難いものなのでございませうか。

 身にも替えがたい一人息子を失くしたせいか、ちかごろ幽明の堺があいまいに思へ、さのみ詩の世界が恐ろしくなくなってまいりました。
 昨夜も焼けない広島駅のホームで夏雄と私がならんで、しきりにあの子にあれからの出来ごとを話してやって居りますと、やがて汽車が発車する時間になりさっさと夏雄だけが乗ってしまふのです。動き出した汽車の窓から顔を出してゐる彼の子に、
「今度は何日来られるの?」
 と私が急にあわてて、まだ話切れぬ話に未練がましく窓を追ひかけると、私の愚かな問を笑ふやうに
「もう来られないよ」
 さう云はれて嗚呼仏の国からは定期の列車も出ないのは無理もないことと、さう思ったとたんに眼がさめました。彼の世から汽車に乗って逢ひに来てくれたのでありませう。こちらからは訪ねる術もないが、何となく向ふからはすべてのことが見えもし聞えもしてゐるやうな気がこの頃してまいりました。



                    五


 大変ながい手紙になって申しわけございません。疲れてまいりましたので文字も文句も乱れがちでさぞかしおよみ辛いこととおわび申し上げます。
 田舎へ来たおかげで彼の子の好物の枝豆、西瓜、かぼちゃなど供へてやれます。広島ではじゃが芋ばかり配給され、じゃが芋六分、米四分の御飯ばかりを食べさせ、育ち盛りの子に満腹させてもやれなかったのですまなく、仏様には白米の御飯をまつって居ります。一ぺんでも充分に生きているうちに食べさせてやりたうございました。
 もう一月、いゝえもう十日生きてゐて呉れてゐたら戦争も終り命だけは救はれましたのに、と、またまた愚痴になりますのでペンを置きます。
 原子爆弾の恐ろしいその破壊力、アメリカの最後の手段、その最後の犠牲になった三十万人の中に彼の子も入ったのです。でもそれが戦争の終止符となり、平和日本の人柱になったのだと思ひ無理にあきらめやうとして居ります。