自立劇団「新生」の頃
Vol.39 1983.6月号掲載
杉本吉司
 敗戦間もない昭和二十二年頃、掛川町の若い人が、掛川文化連盟を発足させた。

 スポーツ・音楽・文学・絵画・演劇・其の他、各班を作ってそれぞれの自分の好みの班に入って活動を開始した。だから自立劇団新生も当初は演劇班と呼ばれていた。今の若い人には想像もつかないくらい何もない時代で、バス・トラックも大半は木炭か小割りした薪で走っていた。娯楽等も映画か、食糧難の為、地方廻りに出ざるを得なかった中央の劇団、音楽の公演が時々掛川座へ来た。

 劇団新生の公演は掛川座で何回か行われたが、いつも大入満員で二階も地階も後ろで立ち見している観客が波のように、左右ゆれ動いていたのを覚えている。

 レパートリーは、斉藤さんの、玄界灘を渡る、青空天使、シング谷の影。伊藤君の喜劇丹下左膳、父帰る、北風の呉れたテーブル掛け、ども又の花、みにくい顔の天使、等々主なものだけでも十五、六を数えた。

 玄界灘を渡るは、静岡公会堂で行われた県コンクールで、一位入賞している。当時は米軍の検閲があり脚本はすべて許可されたものでないと上演できなかったので、其の点でも大浦さん田嶋さんは、ずいぶん苦労させられていました。

青空天使には当時小学生だった伊藤君の弟の輝夫君(伊東四朗さん)が戦災孤児の役で、少女役の小野田さん、式守さんと出ていた事があって、何年か前、日本テレビの、伊東四朗さんの特別番組に、小野田さん、式守さんと一緒にゲストとして招かれた事がありました。今はなき南伸介さんほか、青島幸男さん玉川勝太郎さんが見えておりました。三十数年前の思い出は色々と尽きませんが、私の失敗談をひとつ。

 みにくい顔の天使で、心は美しいのに顔が醜いが為、悪い博士に、顔を直してやろうとだまされて、一層ひどい顔にされた男が、博士に殺され木乃伊(ミイラ)にされた母を持つ娘を助けようとして、博士にピストルで撃たれる場面で、私はかんしゃく玉をトンカチで打ったのですが、手元が狂って音が出ず、其の上ローソクが倒れて真っ暗闇、何回打ってもコッツン、コッツン、博士役の伊藤君が、何度も何度もねらいを定めるのだが、一向に音がしないので、「貴様など、ピストルで殺すのはもったいない」と、田林君の持っている短刀をうばってやっとNGを出さずに済ました。というおそまつ。

しかも、見物人はそういう筋だと思って誰も気かなかったそうで、私奴も反省会でさんざんひやかされ後々迄も語り草にさせられました。当時の劇団の皆様も、ほとんど五十の坂を過ぎ、それぞれ孫のある年頃ですが、ハングリーだったけれど、演劇に熱中した青春の一頁を、時々思い出しては懐かしんでおられる事と思います。近いうちに又昔を偲ぶ会合を持ちたいと思っています。