山の中に住む
Vol.35 1983.2月号掲載
伊藤千章
 掛川に住んで四度目の冬、朝晩の冷え込みはきびしいが日中は青空と太陽がまぶしい。かつて住んだ山陰の冬は連日曇天が雪で、青空がのぞくことはほとんどなかった。一日中零度以下の真冬日も多く、火のそばを離れがたい。静岡は本当に気候にめぐまれている。

 現在住んでいる原泉は原野谷川の清流にそって広がる谷間にあり、自然環境にもめぐまれている。訪れる人々は誰でも美しい自然を誉めたてる。だがこの地に住む者にとって美しい自然はそれ程有り難いものではない。自然が保たれている分だけ文明に浸食されていず、それだけ不便だからである。

山の中に住むことは個人的にも社会的にも大きな努力をしいる。山の中に住むことは実は人の中に住むことである。住民の数が少なく、周囲の自然がきびしいだけに、災害に直面した時必要になるのは人々の団結である。このような地域では日頃から団結のための訓練がおこなわれる。

おりおりの共同奉仕作業や数多くの会合等、大都会に住む人々には無駄かつ不合理に見える活動が、実は山の中に秘められたエネルギーのもとなのである。そこには生きた社会、「人間は社会的動物である」という時の必要不可欠な社会がある。

 私はかつて大都会の郊外住宅地に住んでいた。そこにはこのような社会はなかった。人々は「会社」の一員またはその家族であっても社会の一員ではなかった。都会はばらばらの個人の集まりであり、人々は他人に干渉せず干渉されず、自分の個人的な目的をめざそうとする。個人的な生活に没頭できるだけ、都会の生活は気楽である。だがその気楽さは現代の大都会の巨大な機構が人々の生活をつつみ込んで保護してくれる中での気楽さである。安全さは人々の心をむしばむものである。

 一方、自然のきびしさと社会の重さに耐えるという受身の姿勢だけでは山の中に暮らす魅力が乏しくなる。自然を美しいと感じる心の働きさえもしなびてしまう。そこで自己の夢を持ち続けることはむずかしい。だが山の中に住むことの魅力はその困難の克服にある。

昔から人間が生きることはそうだった。様々な苦難に耐え、はねのけることによって人は成長してきた。現代の都会生活の便利さ気楽さはむしろ異常であり、一時的な幻なのかもしれない。山の中は人間を鍛える場なのである。自然の美しさを喜び、人の世の悲喜劇を、面白いと笑うほど大きく自由な心が育つのにふさわしい条件が山の中にはある。