温故知新
Vol.34 1983.1月号掲載
堀内籐三郎
 昨年の秋の夕方、私は掛川市街の目抜き通りの中心地、旧東海道のN町の鰻・かば焼きの店S店へと足を進めていました。

 七十才の集いの方々の実行委員の慰労会がこの店で軽く行われて、スポーツの強いH市議やG元学校長、和田岡のOさん等がぞろぞろと店を出てきました。自動扉を過ぎて、夕食を食べている客等に混じり、私は席についた。ふと、東側のつい立を見ると、珍しく筆できれいに勘定書きらしきものが書いてありました。和紙を半分にして、大福帳にしたものらしく、その一部をつい立の飾りにしたらしいので、風流なものである。

 主人に聞くと、かっては山口楼とならび称された富田楼の、大正三年のものとの事です。大正三年と言えば、今より六十九年前の事である。関東大震災の九年前で、私の兄と一緒である。私は、大正十三年一月生まれであるが、白髪も増え始めている今日この頃である。毛筆ですらすらと書きしたためてあったので、二、三興味あるところを抜粋してみよう。

 太田郡長のかん迎会 一円八十銭 八千代芸者七本 原谷村長、大庭五郎吉、山崎九八郎、雨桜村などである。本山口 榛葉幸蔵(前市長の親)、池新田の宮本雄一郎代議士、西郷の杉浦五兵衛代議士。粟本の岩井義三郎氏外である。

 酒、うりもみ、上丼三十ヶ 丼四ヶ 祝儀五十銭等と、現在でも判別で読める。
 三十銭・オグレツとあるのは、オムレツの事だろう。塩やき肴 ふじや
 うなぎ丼・六十銭、西町、村松、今のスタジオの先代だろう。
 八月 三円三十三銭 大庭五郎吉、宮本雄一郎の諸君 刺身沢山、奈良漬沢山と、奴豆腐、お通し、酒少々、芸者八千代、金時、吉丸、太郎、はね子等と酒席にはべり、三味線の音も賑やかであったでしょうね。

 酒一本、サイダー一本、茄子焼、蒲鉾と記入 長谷川佐一郎と松風屋と村上との名前有り。今の掛川スーパーのお父さんかしら。
 四円八拾弐銭、浪花節とりまき、お通し豆、胡瓜もみ、塩焼、焼海苔、ビール五本酒十本、八千代と書かれています。
「席」「人数」「女中 つね」とゴム印で押されており、富田楼の女中でしょう。

 今の商工会議所の建っているところに、小笠郡役所がおかれ、政治の中心地であり、又、文化センターの所には、陳列館があり、戦後は農業会の小笠支所等々が置かれておりました。

 袋井横須賀の間に中遠鉄道が開通し、町立掛川実科高等女学校が開校された年で、西町の円満寺境内、今の幼稚園である。

温故知新 私は、今ビールを待ちながら、もう一度つい立ての和紙の文字を読みふけった。