掛川公園周辺(掛川の庶民史発掘)
Vol.30 1982.9月号掲載
中川良一(医師)
 掛川は今でも静かな町ではあるが、大正の初めの頃はひっそりと静まりかえった、もっと平和な町であった。掛川公園も当時はまだ公園とは呼ばれず、お城・平山・天守台・お観音様と一つ一つ呼んだものである。緑橋を渡ると、右手が平山で(当時は川添の東西に通じる道路はまだ出来ていなかった)周りが高い土手に囲まれ、土手の上には、松と桜の木が植えられていた。中の広場は、子供の絶好の遊び場であり、当時流行した自転車競争の出発点になったり、提灯行列もここから出発した。

夏は素人相撲も行われ、また東京の大相撲の巡業も殆ど毎夏、ここで行われた。お城の御殿の建物は女子小学校になっていて、その奥に実科高等女学校があった。お観音様は登る坂は岩肌が露出していて、それに段をつけただけなので、雨の後などは滑りやすく、大変登りにくかったし、危険でさえあった。坂の左側に私などが通った幼稚園があった。ここは後に水道の水源地となり、今はちびっ子広場となっている。西高の方へ出る耳取り坂も、狭く滑りやすい岩道であった。

 天守台の坂の中段から古城橋(勿論、この橋も後から作られたもので、当時はなかった)でつながっている太鼓櫓のある小さい丘には、当時高い塔が立っていた。6メートル位もある青銅の塔が中央にそびえ、南の端にこれと向かい合って、銅板をはめ込んだ石碑があった。日清戦争の記念塔と忠霊碑である。

 私は掛川生まれ掛川育ちということになっているが、大正の終り頃から敗戦までの20年間は町に居なかったので、この記念碑がいつ取り払われたか知らない。戦争中、金属品の回収運動が盛んだったので、その頃取り払われたのではないかと思うが、当時のことをご存知の方に教えて頂きたいと思っている。

 もうひとつ、ついでに記しておくと、これは日露戦争に関係するものだが、天守台の下の霧吹き井戸の西側に、戦利品の野砲(加農砲)が置かれていた。又、布設水雷もあり、観音様の鉄柵の四隅には大きな大砲の弾が置かれていた。大砲は車輪がついており、砲身にドイツ、クルソブ社製造の銘が入っていたように思う。

戦勝観世音は平和観世音として、昔のままであるがこれらの記念品は今はもうない。いつ取り除かれたものであろうか。当時中学生だったH氏のお話だと、戦争の末期頃にはまだあったことを覚えているそうであるから、マッカーサーの占領軍が進駐してきてからどこかへ処分されてしまったのかも知れない。この点もご存知の方にお教え願いたいと思う。

 ここでもう一度考えてみると、前記の記念塔も前後取り付けられたこともあり得るのであるが、真相はどんなことであろうか。