1950我が青春の掛川町
Vol.26 1982.5月号掲載
小沢冬雄(作家・大学教員)
 昭和25年、わたしは掛川西高を卒業した。前の年の夏から、下山事件、三鷹事件、松川事件といった不気味で陰惨な事件が立て続けに起こり、占領政策もにわか右旋回して、やがて朝鮮戦争が始まろうとしていた。

二年前から政治づいていたわたしたち(昭和23年夏、日本青年共産同盟掛川西高班結成)は、数学の先生だった小笠郡教祖大橋委員長のレッド・パージ(マッカーサー司令部の指示による左翼労働者、教員などの首切り。たとえば現市議・鳥羽茂男氏などもこのときの犠牲者)を喰い止めることができず、絶望していた。

戦車、飛行機、カービン銃で武装した占領軍は、相手として巨大過ぎ、田舎の高校生は涙を呑んで引きさがるほかなかった。机の前で落ち着くところではなく、朴歯の下駄(革靴などない時代だった)を鳴らしながら、連雀・肴町と、町の盛り場を歩き廻り、煙草や酒に親しんだのも、その絶望のせいだ。煙草を飲み、酒をなめながら、わたしたちは「憂い顔のドン・キホーテー」だった。

大学受験を目の前にしながら、わたしはいっこうに勉強しなかった。ひたすら受験勉強に打ち込めばいい今の高校生と違って、わたしたちの青春はまず「天下国家を憂うる」ことに始まらねばならなかったようだ。

 酒を教えてくれたのは、これも今なら考えられない話だが、HR担任のKさんだった。学問をでなく遊びを教えてくれる先生だったから、どうも先生とは呼びづらい。酒だけでなく、ゲイシャというものも、この先生が教えてくれたが、およそ性に関しては今の若者たちよりオクテだったようで、いっこうに興味が湧かず、頭の中を占めているのは依然イールズ事件であり、朝鮮半島の動向だった。

 当時の掛川町でバーといえば、栄町の「白鳥」一軒きり。ここへよく行った。今なら即刻退学だろうが、酒を飲みながら、「蕪村句集」を目の前に置き、俳句を作り合っていたのだから、これを非行といえるかどうか。日大で金融史を講じているOなど、酔いが廻るにつれ良い句をつくったものだ。一度、明らかに脱走兵と思えるアメリカ兵が、濡れねずみで入ってきたことがあり、このときの情景は小説「鬼のいる杜」で描いておいた。

 「白鳥」のただ一人の若いホステス、セッちゃんは、わたしたちが大学生になって、それぞれ東京や京都に去った後、自殺した。そういえば「白鳥」での「飲み仲間?」だった先生の一人も自殺した。時代の暗さ、あるいは人間存在の不安は、わたしたちだけでなく、ホステスにも先生にも濃い影を投げ掛けていたのだろうか。