名付けについて思うこと
Vol.23 1982.2月号掲載
 渡辺憲一
 あかちゃん誕生を待ちわびながら、名前を考えるに、男の子、女の子を問わず、両親に名付けて戴こう、いや、何処かで見て戴こう、自分で付けようかなど、良い名前、気に入った名前はないものかと、思案に暮れている折から、決まらずして生まれてしまった。

 名付けの全権をまかされ、まず、ご近所の子供さんの名前、親戚中の子供の名前を、思い出しながら、同じにならないように、ひらがな、カタカナ、漢字に、考えつくままに書き出してみる。

なかなか決まらない、困った、辞書と首っ引きである。期日は、あと三日だ、どうしよう、あと一日……。会心の名前があったぞ、これに決定だ!意気揚々と出生届けを提出する、何と晴れやかな気分……だが、すこし変だ、受付の人の様子がおかしい、なんだろう、届けの書き方が間違っているのだろうか、不安だ……悩み、考え、決心した子の名前が、常用漢字、人名漢字に無かったのである。

 人間個々に、性格が違う、性質、環境等、ほとんど異なっていて個性を持ち歳勝つ社会を作っているように、漢字も一字一字に、字義あって、その字の持つ意味があり、人間の意志と結び付き言葉を作っていく。よめる字、よみにくい字、よめない字、何やら人間の個性と似ている様な気がしてきた。
 人名漢字が増やされているとは言うものの今でも悪戦苦闘をしいられている漢字ではあるが、名前に使われても良いと思う立派な字がまだ随分と残されているのではないか。近視眼的発見かな?

 学生の頃、心の底にアレルギーを起こした漢字に、今、もう一度苦闘するとは、なんと嬉しい悩みではないか。
 両親が名付けするも、人に見て戴き名付けするも、自分が名付けするも、名付親の自信と信念を、あかちゃんに託し委ね健やかに、明るく元気いっぱいに育てと希望をこめて、命名する気持ちは自分だけではないと思う。