のろのろ運転
Vol.31 1982.10月号掲載
戸塚 廉(おやこ新聞社)
 私の体質は、のろのろ運転に向いているらしい。掛川へ出るスクーターは、自動車の多い道を避けて、下垂木の新田から飛鳥、二つ池、城北という曲がりくねったコースを、法定の30キロ以内で行く。だから、昭和27年から、31年6ヶ月間に、一度も警察に叱られたことがない。表彰に該当するはずだが、申請しないと表彰してくれないらしい。お願いして表彰されるのもバヵバヵしいから黙っている。

 小学校六年のとき、カラダは二番目に大きかったが、リレーメンバーにしてもらえなかった。そのころ私の雨桜村は、原泉・原田・和田岡・垂木の六か村で連合運動会をやった。会場は、本郷の北の長い橋のすぐ上の河原の、大きな石をのぞいただけのデコボコのコースで、リレーは10人。バトンなどというものはまだなく、メリケン粉の大きな袋にモミガラをつめた、長さ50センチ、まわり1メートル位のを、わきの下に抱えて走ったものだ。六年生で二番目に大きいのに10人の中に入れないから恥ずかしい思いをした。

 大正九年に中学に入り、まもなく開校記念日のマラソンがあった。西郷から倉真の坂を青田の出て粟本を通ってくるから20キロくらいだろう。それで、全校450人位のうち36番になった。一年生だけなら4番か5番だろう。それで、「オレは長距離ならいいんだ」と思って、秋の運動会では、いつも800か1500に出た。

 四年生や五年生で長距離にいどむようなバカはいない。しかし、私は相変わらず1500を申し込んだ。弟の哲郎は、二年生だが、1500の正選手だった。他に相手がいないから、弟他3人の競技部員と一緒にされた。7周をトップで駆け、あと50メートルというところに運動場を囲んでいる生徒からものすごい拍手が起こった。「オレが、選手どもをリードして、トップを駆けているから、全生徒が驚嘆しているんだ!」私は息もたえだえになりながら、しかし、威風堂々と走り続けた。

 その時である。弟哲郎が、ものすごいラストスパートで私を追い越してゴールに飛び込んだ。それにつづいて私は倒れるようにゴールインした。

 しかし諸君!考えても見たまえ、あの猛烈な拍手は、果たして、弟哲郎にだけ送られたものだろうか。否だ。断じて否だ。あの拍手の半ばは、あきらかに、他の選手をしのいで、二着に入った私に送られたものだ。

「アニキが気持ちよさそうにトップを走っている。できるだけ、この喜びを味わせてやろう。しかし、オレも選手だ。最後の一着はオレが取らなくては八百長になる。」

 弟はそう考えていたのだ。彼にしてみれば自分の記録を更新することが出来たかも知れない。それにもかかわらず、彼は私に何分かの喜びを保障してくれた。そういう弟だった。

彼は3年前に私に先立って死に、私の墓地にあずかっていた彼の骨は、9月15日には、河口湖のほとりの墓地に移される。極楽のゴールにまで、もうちょっとという所で、私を追い抜いて行ってしまいやがった!

 「しかし、水泳では兄貴に叶わなかったナ」河口湖をながめながら、大正12年に2人とも浜名湖の礫島から弁天島まで泳ぎ切った大遠泳のときのことを思い出しているかもしれない。