西高校歌のルーツを探る
Vol.17 1981.8月号掲載
八木 訓
 私は、いま勤めている会社に入社して20有年になるが、3年前はじめて地元掛川の営業所で仕事をするようになった。

 いずれにしても、会社のことはともかくとして、私はいつも新しい土地へ行くと、まずその土地で自慢できる“もの”探しをやることにしている。それが場所であれ、食べもの屋であれ、菓子類、はたまた故事来歴であれともかく会う人ごとに質問魔になって、ひたすら探し求める。郷土新聞や78パーセントも格好の情報源である。そして、会社の連中の知らない“もの”を発見したときなど、“地元にいながらこんなことも”と悦に入ったり、仲間うちの会合などの話題の仕込みをすることにしている。

 つい先ごろの話であるが、ある会合の二次会の宴席で、ひとしきりお互いの郷土の自慢話に花を咲かせたあと、各々の母校の校歌を歌おうということになり、私は母校掛川西高の校歌“岩根こごしき天守台……”と歌い出したところ、掛川など知る由もない友人が、「その曲は俺の母校のだ」と言う。

 そこで、お互いに歌ってみると、歌詞こそ違うが曲の方は正に同一なのである。その学校は、群馬県立沼田高校といい歴史もほぼ、掛川西高と同じとのこと。学校を卒業して26年、いまだそのような話を聞いたことがないだけに、このルーツをお互いに追求してみようということになった。

 早速、母校に問い合わせてみたが知る人とてなし、初耳だという。ただ、今のところは掛川西高の80年誌に「掛中開校 顧望八十年」と題した杉本良さんという方の書いた文中に、初代校長が群馬県に関係し、また作曲者の塙という先生が水戸で校長と知り合っているなどから推察すると、どちらが先とも言えないが関係はありそうな気がする。

 この辺の経緯を知っている人がいたら教えてほしいと思うが、穿った見方をすると、双方の学校が遠く離れていることから、知れる気遣いはあるまいとしてやったことかも知れない。それが80数年を経て、見つかってしまったことを知ったら、作曲者の塙先生は草場の陰で一体どんな顔をしていることだろうか。