掛川の葛布と私の家
Vol.9 1980.12月号掲載 
川出茂市(川手商店四代目幸吉事)
 昨年だったと思いますが、テレビでおなじみの水戸黄門で掛川の葛布問屋の事が放映されましたが、このモデルになった人は、今、静岡銀行掛川支店の西隣の今は商売はやっておりませんが池谷さんの家元葛布問屋の古田屋平衛門の家で当時は袴(はかま)地・裃(かみしも)地・道中合羽を織って居りました。(テレビでは時代が違っているが実在の人物です。)明治維新の大変革で掛川の葛布も大打撃を受け店を閉じてしまったようでした。この頃、私の所では旅人宿をやっておりましたそうで、土産品に葛布の反物を売っておったそうです。

 初代幸吉は進歩的な人で色々と商売をしたそうで時代の先端のマッチ製造も手がけたそうです。この平衛門のところに初代幸吉の娘が嫁に行き、この人に色々と教わり、今までの着尺物から三尺巾の布を織ることを考え出して唐紙、襖の材料として東京に出した所、好評でふたたび掛川の葛布も活気を戻す事ができるようになったそうで、明治三十年頃、二代目幸吉(茂作)の時には全盛期で、アメリカ、ヨーロッパにグラスクロスウォールペーパー(葛布壁紙)の名で輸出、掛川の葛布屋も十数軒にもなったようです。

 三代目幸吉(福次郎)の時は大東亜戦争の時で物資も全てなくなって、細々と葛布の仕事をやっておりました。終戦後物資も出まわる様になって、再び輸出される様になったのも、つかの間に韓国産の葛布の安い物に押され、昭和三十五年には四十軒もあった店も又、大打撃をうけ廃業、転業されて、現在では葛布だけを専門に織っている店は私、四代目(茂市)の所だけになってしまいました。

何とか掛川の葛布を残さなくてはと、栃木県、茨城県、地元掛川の原料を買い入れるとともに、静岡の工業試験場のデザイン教室に二年通って、静岡の方々と共に勉強して、今創っております葛布製品を人真似でない、私一人で創りだした物を自信をもって、今では全国各地に出荷しております。私の店では「皆様とのふれあいと信用第一」をモットーにしておりますので決していい加減の物は造っておりません。

 いつまでも皆様から喜んでいただける葛布の製品をいつまでも長く使って頂ける物を創ることに努力しております。尚、私の家の製品は、掛川市内では西町の友琴堂さんにしか卸しておりません。又、私の家では三代目(福次郎・かず)夫婦と四代目(茂市・芳)夫婦と五代目(英道・ちずる)夫婦の三夫婦そろって葛布を作っております。皆様からも目出度い……といわれております。