掛川タウン誌
78%KAKEGAWAの発行人のやなせかずこが取材や仕事を通じて思うがままに書き綴った日記。
1986年 Vol.76
1986年5月25日

言葉が通じないってことは、誠にやっかいなことで、今月号の特集ほど苦労した取材はなかった。先方の通訳はたった一人で、あっちこっちで引っ張りだこ。直接ハンガリーの人達にインタビューしようと思っても言葉が全く通じない。(主にマジャール語かロシア語で数人が英語が話せる)身振り手振りでも意志は通じないこともないが、それでは記事にならない。通訳のエバさんはお腹がすいていても食事をする暇が無い位で、取材に応じて貰っても、相手のお腹具合と時間を気にしながらでは、とてもじっくりと話は出来ない。私は柄にもなく遠慮して「先に食事をしてください。」なんて言ったものだから、結局食事を済ませた所で、次の公演時間が迫っていて時間切れ。相手の迷惑も顧みず強引に取材していく週刊誌記者のようにはなれない私は、途中何度やめようと思ったかしれない。しかし、はっきり言ってここで諦めたら、特集を何にするかで、また頭を悩ませることになる。そこで、我慢強く待つことにして、私たちにしては珍しくマメに足を運んだが、通訳のエバさんを介して話が出来たのはたったの2回。それもごく短い時間だったので、残念ながらハンガリーの人達の話はあまり聞けなかった。それでも高橋宏君のおかげで、なんとか記事もまとまりそうだ。高橋君ありがとう、感謝感激雨あられである。

1986年5月26日

今日は私の誕生日。別段うれしくもないが、誰も祝ってくれなかったのに、ただ一人小学生の甥が、ツメ切り2個とキーホルダー1個、自分で作った粘土細工(宇宙船だと思う)を持ってきて「どれでも好きな物をあげる」と言ってくれた。大人からすればどうでもいいような物だが、自分の宝物として大事にとっておいた物だろう。下心もあったようだが、この際そんなことはどうでもいい。ありがたく頂戴することにした。

1986年6月9日

中村梧郎著「母は枯葉剤を浴びた」(新潮文庫)を読んだ直後に、ベトナムの二重体児(シャム双生児)ベト君とドク君が重体というニュースを聞いた。ベト君とドク君が生まれた時、二重体児だったために助産婦も母親も気を失ってしまって、周囲の人が現地の病院に運び込んで命を取り留めたという。しかし、病院が元気に育だっていることを伝えようとしても、両親は「そんな子を産んだ覚えはない。生まれたとしてももう死んだはずだ」と言い続けているという。出生地は枯葉剤を激しく散布された地域でもあり、枯葉剤を浴びたベトナムの母親に異常出産が襲っているという。そした、ベトナムだけではなく、枯葉剤を散布したアメリカ兵やその子どもにまで影響が及んでいる。この本にはシャム双生児の他に、様々な奇形児の写真が掲載されていて、思わず目を背けたくなる。途中で見ていられなくて読むのをやめてしまったが、しかし、こういったものから目を背けてはならないと、自分自身に言い聞かせつつ最後まで読んだ。ベト君とドク君が私たちに教えてくれたことは大きい。国際的な世論も巻き起こした。こういった形で世間の注目を浴びたことは悲しいことだし、二重体児のまま成長することが、彼等にとって果たして幸せなのかはわからない。だけど、やっぱり助かって欲しいと願わずにはいられない。戦争なんか二度とごめんだ。
1986年 Vol.77
1986年6月19日

今日は女子高校生が「LOOKの記事が載っている78%を譲って下さい。」と編集室にやってきた。(最近多いんですよね)お金を渡そうとしたので「お金はいらない」と言ったら、本当に嬉しそうな顔をして「ありがとうございました」と頭を下げて帰って行った。あんなに嬉しそうな顔をされると、こっちまで嬉しくなってしまう。大した本じゃないのにね。(LOOKのせい?)

1986年7月1日

「また、パンクかあ。」つい10日ほど前にもパンクしてタイヤを1本駄目にしてしまったばかりである。しかも2回とも左の後輪で場所も同じ。見ると太い針金がぐっさりと突き刺さっている。こう続けてパンクするとタイヤの交換もかなり手慣れたものである。10分ぐらいで交換できるようになった。私が運転免許証を取ったのは10年以上も前である。自動車学校ではなく教習所へ通ったため、授業もなにもなく、ただ運転を習うだけの所である。もちろんタイヤの交換の仕方も教えてくれない。免許を取得して2、3年目に東名でパンクして往生したことがある。「パンクくらいは自分で交換できなければ…」と、家に帰って早速父親に教えて貰った。その後は、どこかの女性がパンクして困っていたときに交換してあげたことも有り、パンクぐらいなら何とかなる。いつも車に乗っていると、どこで何が起こるかわからない。もっと車のことを知っておかなければいけないと思うが、故障しても部品が無ければ修理も出来ない。これだけ車に頼る生活をしていると、せめて女性もタイヤの交換は出来るようにしておきたいものである。

1986年7月3日

夜11時頃、藤枝バイパスを走っていたら、突然前方左手の空が燃え上がったように明るくなり、直ぐにまた暗くなった。異常な明るさに、頭の中に浜岡の原発が浮かび上がり、急いで窓を閉めた。料金所を通過するとき、料金所のおじさん達は平然としていつもと全く変わらない。目の錯覚だったのだろうか。それでもあの真っ赤に燃えたように赤く染まった空が気になり、ずっと左を見ながら走ったが、その後は再び明るくなることはなかった。島田市に入った頃、パトカーが猛スピードで藤枝方面に向かって走って行った。異常な事態を想像してみたが、結局パトカーが一台走り抜けて行っただけであった。スピード違反の車でも追っかけていたのだろうか。私の勘というのは当たったためしがないが、なぜか今日は胸騒ぎがする。急いで編集室に帰ってみんなに報告したら、隕石説も出たが「UFOだらあ」という結論に達した。本当かなあ…。どうも半信半疑である。

1986年7月4日

夜8時頃、ラジオから「昨夜の11時50分頃、藤枝市で花火工場が爆発した」というニュースが流れた。7棟全壊、5棟が全焼したそうで、これで昨夜の燃えるような空の原因がわかった。夏の夜、私たちの目を大いに楽しませてくれる花火も、それを作っている花火工場では、命がけなんですね。

1986年7月10日

78%を廃刊にすると書いたら、「78%つぶれるだあ?」と聞いた人がいるそうだが、レターハウスはまだ潰れません。本業のデザインオフィスはそのまま残りますから、くれぐれも勘違いのないように…。
1986年 Vol.78
1986年7月12日

夜、広告の撮影で「おりがみ」に行った。たまた居合わせたお客さんに「何年続いたの?」「何でやめるの?」「また出してくれる?」と、いろいろ聞かれ、いよいよ帰る時に「長い間ごくろうさん」と、拍手で送られた。思わず胸がジーンときて辛くなってしまった。やめる時には明るくやめようと決心していたのに、崩れそうである。いつの間にか78%が体中に染み込んで、子どもと別れるときのような(と言っても残念ながら子どもはいない)淋しさを味わっている今日この頃である。編集の苦痛もさることながら、やめることもなかなか苦痛を伴うものらしい。ちょっと長くやり過ぎたかな、というのが今の実感である。

1986年7月17日

夕方5時半頃「○○の××の車、ここは駐車禁止ですからすぐに移動しなさい」という、例のスピーカーから流れる声が聞こえる。「ちょっと待ってやあ」と車の持ち主。「待てないよ。早く駐車場へ入れなさい」と再びスピーカーから流れる。その言い方が変に抑揚がついていておもしろい。押し問答すること5分。あまりに長いのと、いつもと違ったやりとりにすかさずテープレコーダーを窓際に持ち込んだ。外を覗くとあちこちの商店からもそれぞれ2、3人が店先に出ていて大勢で押し問答を聞いている。テープの中には「だめだめ、すぐ入れないと切符を切るよ」「こんなに親切に言ってあげてるんだから、頼むよ」という言葉がしっかり入っていた。どうやら「頼むよ」という言葉が最後の切り札だったようだ。「頼むよ」という言葉は最近の流行らしいですね。とにかくユニークなおまわりさんでした。居丈高(いだけだか)に言われるよりも、よっぽど親しみがもてる。

1986年8月4日

またドジをやってしまった。今日は台風の影響で、東海地方から関東にかけて大雨が降り続いているというニュースがしきりに流れている。掛川はあまり降ったという実感はなかったけれど…。午前1時頃、ラジオでしきりに「逆川の水位が上がって、あと60cmで決壊…」というニュースが流れている。「本当かな?」と半信半疑ながら、たまたま事務所に来ていた郷土新聞社の戸塚君と編集長、私の3人で「合同取材に行こう!」と出かけた。途中の逆川を除きながら梅橋まで行った。ところが、いつもより水位は高いものの、とても危険な状態ではなかった。誰も様子を見に来ていないし、空には満点の星が輝いている。久しぶりにこんなきれいな星を見るなあと、暫くじっと眺めていた。その後、袋井まで行ったが異常は無かった。事務所に帰ると「逆川が決壊した」というニュース。暫く考えこんでいたら、次のニュースで謎が解けた。掛川の逆川ではなく、栃木県の逆川であった。栃木県の人には申し訳ないが、掛川でなくてよかった。

1986年8月22日

この「ナンなんだ日記」を書くのも、これが最後になってしまった。ホッとしたと同時に一抹の淋しさも味わっているこの頃である。今までは一冊の本の中に、自分の言いたいことを至る所で書くことが出来た。これからは、どうやって鬱憤を晴らそうかと思案中である。「ナンなんだ日記」に限らず、長い間、私の拙い文章(誤字も多かったなぁ)にお付き合い下さいまして、本当にありがとうございました。
袋井市の原野谷川に架かる和橋(やわらばし)の上でで戸塚君と記念撮影。