掛川タウン誌
78%KAKEGAWAの発行人のやなせかずこが取材や仕事を通じて思うがままに書き綴った日記。
1986年 Vol.72
1986年2月11日

今日は朝から雨。時々ミゾレが降ったそうであるが、私は全く知らない。夕方から特集の石けん作り。作り方は至って簡単なんだけど、温度が下がるまでの間、ずっとかき回しているため、単調すぎて飽きてしまう。
部屋の中だとなかなか温度が下がらないため、この寒いのに外に持ち出してのかき回し作業。冬の夜はやっぱり寒い。時々部屋の中に入ってはストーブで暖まり、また外に出て行くという繰り返し。おかげで早く温度が下がるので効率が上がった。
たった一升の廃油が、大きいバケツに一杯。石けん作りに買ったのは280円の苛性ソーダだけ。しかも、頑固な汚れも良く落ちると、いいことずくめ。まだビシャビシャで固まっていない。これが2週間ほど置いておくと。しっかり固まって石けんが出来上がる。2週間後が楽しみである。
さて、夜中に自宅へ帰る時、車の鍵穴が凍ってしまって開かない。助手席の方から辛うじて乗り込んでなんとか乗れたが、こんなことは初めてである。

1986年2月14日

今日は男性にとって明暗を分ける魔の一日ではなかっただろうか。昨日と今日はスーパーのチョコレート売り場がもの凄い人だかり。私の行く時間は割合空いている時間帯で、他の売り場はポツポツと買い物客がいる程度なのに、そこのコーナーだけが異常な熱気に包まれていた。高校生、独身OLに混じってエプロン姿の主婦も、真剣な顔付きで漁っている。改めて愛を確認するほど冷め切ってしまっているのかしらん?それにしても、この日を中心に400億円分のチョコレートがばらまかれるという。超義理チョコ、くされ縁チョコが占める割合も多いんだろうけど、ずごいなあと改めてため息が出る。
ところで、今日事務所にやってきたO君、義理チョコは貰ったようであるが、肝心要の想いを寄せている人からは、ついに今年も貰えず、顔色は全くさえない。何という罪づくりな日なんだろう。

1986年2月17日

掛川市を流れる川の汚染の一番の原因が、生活する上で流す生活雑排水と聞いて、自分自身も大いに反省。「川が汚染されている」と、散々訴えてきたのが、その原因を作っているのが私たちであるといわれたのだから、内心の動揺は隠せない。これでは自然がどうのこうのと、偉そうなことは言えないと反省しきり。
洗濯洗剤だけは、ずっと以前からミヨシの粉石けんを使っている。リン酸塩はもちろん、漂白剤、LAS(界面活性剤)、酵素、蛍光剤等一切使っていないと表示してあるのでそれを信じて使っている。台所も固形石けんと廃油を利用して作った石けんを貰ってきて使っている。
今の川は洗剤を変えたくらいではきれいにならないそうで(もちろん、合成洗剤をやめて害の無い石けんに替えることも大切)私も、食べかすを少しでも減らすべく、早速いろいろと実行しはじめた。再び昔の川が直ぐには甦るとは思わないけど、せめて臭気を出すような川にだけはなってもらいたくない。いくら街が整備され、きれいになっても「掛川の街は臭い」と言われるようになってはお仕舞いだ。そのためにも、私は私の出来ることから始めてみようと思っている。
1986年 Vol.73
1986年2月18日

事務所の前の公衆電話は、連日大盛況。夜になると30分とか1時間とか、延々と長電話が続く。いったい何を話しているのか気になる所である。公衆電話ボックスの中に、お菓子やらジュースを持ち込んでの長話はよくあるが、今日は弁当持参という人がいてビックリ仰天。受話器を耳と肩に挟んで、お弁当を一生懸命食べているのです。いろんな人がいるから世の中おもしろい。

1986年3月4日

3月は静岡県下一斉に交通取り締まり非常警戒が実施された。私も2月20日につかまったばかりである。この時は20km/hオーバーだったので素直に観念した。ところが私の後からつかまった中年のオジサンは、25km/hオーバー。「おばさんがいたので徐行してたんだけど、通り過ぎたもんでアクセルを踏み込んだもんでスピードが出ただけだ」などと、必死に弁解をしていた。無駄な抵抗はやめなさい。悔しいだろうけどいくら弁解しても無駄。そんな弁解が通用する程世の中甘くないのだ。
それにしても、期間中はどの車もかなりスピードを落としていた。「非常警戒実施中」の宣伝は効果てきめんだった。いつもならノロノロ走っていると、必ず後ろにピッタリ付けられたり、ライトをピカピカされたりして、とても制限速度内では走れなかった。それなのにここ2、3日は、みんなお行儀良くついてくる。しかし、いくらお行儀良くついてこられても、先頭を走っていると神経をもの凄く使う。だから、時々、車を左に寄せて先頭を譲ってくれる人なんかが出てきたりして、これは非常に迷惑千万である。前の車の後について行くのは楽なんだけど、前に車がいないと、スピードメーターとにらめっこしていないとすぐ制限速度をオーバーしてしまう。9km/hオーバーでつかまった人もいるというから、10km/h位ならという油断は禁物である。
私は、昼間はほとんど車に乗っていることが多いので、この2、3日で疲れ切ってしまった。それにしても10km/h以内で違反キップを切るのは断固として反対!異議あり!よくパトカーが巡回している時に後ろからついて行くと、殆どのパトカーが10〜15km/hぐらいオーバーしている。オーバーしていないのは婦人警官が運転しているパトカーぐらいのものである。制限速度オーバーしているパトカーの後を同じ様に走っていても何も言われないのだから、10km/hくらいのオーバーならいいだろうと都合の良い様に解釈したとしても無理からぬ話。
常に周囲に気を配って走っていれば50〜60km/hの速度で大きな事故にはつながるとは思えない。実態をつかんでいるわけではないので判らないが、殆どの事故がメチャクチャスピードを出していたり、前方不注意で追突したり、無理な追い越しや、左右の確認を怠っているところから事故が発生しているように思われる。40km/hのところを50km/hで走っていたために事故につながったというのはあまり聞かない。
誰だって事故を起こしたくはない。スピードだって出さない方がいいに決まっている。ただ、警察の人も違反キップを切ることだけを目的にしないで、状況に応じた対応をしてもらいたいと思う。車の流れの波に乗ることも大切で、もたもた走っている車がいることで、後続の車がイライラして無理な追い越しをして事故につながるということもあるからだ。
1986年 Vol.74
1986年4月1日

読者から電話が掛かってきた。4月号の特集「今高校バレーが熱い!」のミスの指摘だった。東校の松村明美さんの名前が朋美さん、掛工の曽根君と佐藤君の写真が逆だったそうで、どうもすみません。実は掛工の場合、時間に追われていたり、フィルムが足りなくなって1名で撮るのを2名で撮ったり、本人が途中でいなくなったりのアクシデントが重なり、自信があまり無かったのですが、知り合いの掛工の子に聞いてもわからないということでそのまま印刷してしまいました。すみませんでした!

1986年4月6日

今夜12時頃、知人のO君から「六法全書とテープレコーダーを持って直ぐ来て欲しい。」という電話があった。訳もわからないまま、六法全書とテープレコーダーとカメラを持って編集長が出かけて行った。しかし、場所の特定が出来ず二度もすれ違い。そのうちにO君の方が先に事務所にやってきた。実は、警察の検問(?)で免許の呈示を求められて拒否したために揉めて、電話してきたのである。
法律では「警察官は無免許運転、酒気帯び運転等で違反していると認められた時に、免許証の提示を求めることができる」となっている。そしてこれは、、運転者は違反していない時には拒否することもできるのである。
O君がこの法律を盾に免許証の提示を拒否したところ、警察官は「そんなことはない。免許証の提示は法律で決められている。」と言い張ったという。そこで「今から知り合いの者が六法全書とテープレコーダーを持ってくるので、今言ったことをそのままもう一度言って欲しい」と言うと、「同じ事を二度言う必要は無い。とにかく今回は許すが、二度とこのようなことのないように…」と言って、どこかに行ってしまったそうである。
私が「別に違反していないんなら、免許証ぐらい見せてあげればいいじゃやない?警察だって免許を見なきゃ無免許かどうかわからないんだし、本当に無免許で運転している人もいるかもしれないんだから…」と言ったら、「別に免許証を見せるのはいい。だけど警察の横暴さに抵抗しているんだ。本当に免許証の提示が必要なら、然るべき手続きをとって法律の改正をすればいいんであって、現在の所は法律で運転者の権利が守られているんだから…」と言った。
二日ばかり前にも同じ様なことがあり、その時は自宅まで追いかけてきて「貴様はヤクザか。そんなことしていると職場まで押しかけていくぞ!」と暴言を吐いたという。その場に居合わせたわけではないので、その時の状況はこちらにはわからないが、どちらがヤクザなのかわからないような言い方だったと言う。それでも屈せず、今回の何度目かの抵抗であった。「本当に警察官が市民の治安と人権を守ってくれるようになったら、いつでも免許証は見せる」というO君の気持ちはわかるような気もする。すべての警察官がそうだとは言わない、中には優しいおまわりさんもいるし、気軽に話しかけられる人もいる。しかし、交通取り締まりに限らず、権力をかさにきて、腹が立つほど横暴な警察官がいることも事実である。まるで犯罪者のごとき扱いを受けた人も少なからずいるのではないだろうか。職務を離れれば同じ市民であることも忘れないで欲しい。またまた警察の批判をしてしまったが、これは悪口では無く、一市民の願いであることを理解して欲しい。
1986年 Vol.75
1986年5月6日

連休を利用して特集の取材に出かけた。のんびり行くつもりが帰りの中央本線と身延線が混んでいて全くの当て外れ。これが普段の土曜・日曜日ならこんなことはなかっただろうと後悔しきり。本文中には書かなかったが、実は富士駅から東海道線で普通列車に乗るつもりが、すぐ後から来たブルートレインに乗ってしまった、特急券を払えばいいだろうと安易に考えたのが間違いの元。一般の乗客は乗ってはいけないんだそうです。

1986年5月7日

中町と西町の交差点で信号待ちをしていたら、後ろから自転車がやってきた。その乗りこなし方はなかなかのもの。停まり方からして違う。そして、信号が青になった途端、すっと出て行く。車よりよっぽど速いのである。後ろからついて行くと、前方をスイスイ走って行く。左右に切りかえしながら走っているんだけど動作の速さと身のこなし方は相当のベテランとみた。ところがトラックの後ろを走っていたと思ったら。、急に右側の反対車線に出て、ついにはトラックを追い越していくではないですか。道路が渋滞してノロノロ走っている場合ならともかく、車だって40km/h出ているのである。いくら上手くても、トラックと自転車ではゾウと人間位の差がある。危険ですから自転車での追い越しは止めた方がいい。ところで、こういう場合の交通法規ってどうなっているんだろうか。自転車には免許証がないから、違反にはならない!?

1986年5月16日

4月26日に起きたソ連のチェルノブイリ原発事故で世界中が恐怖感に襲われているはずなのに、国内で原発を推進している人々は、今回の事故を批判するどころか「日本では原子炉のタイプが違うから起こりえない。」と主張して譲らない。ソ連の秘密主義だけを前面に出して、原発の恐ろしさは決して口に出さない。アメリカのスリーマイル島の原発事故(1979年3月)の時には「あれだけ人為的なミスが重なったにもかかわらず、なお一人の死者も出なかった。これほど安全なエネルギーはない」とも言っていた。
しかし、スリーマイル島の周辺や、イギリスのウィンズケール原子炉火災(1957年10月)があった周辺では、白血病や癌患者が異常に発生しているという。放射能は弱い者に一番影響を与え、特に子どもや胎児が一番影響を受けやすいという。今度のソ連の原発事故によって、ヨーロッパ全土で大量の癌患者が発生する可能性もあるといわれている。
どんなに優れた機械や装置でも必ずいつか故障するときが来る。原発の場合、故障して放射能が出れば容易に近づくことが出来ないから、恐いのである。遠い国の出来事じゃなく、国内の身近で起こりうるということを良く自覚すべきだ。また、浜岡原発の推進派は「事故が起こったら、中電から早めに教えてもらって一緒に逃げましょう。」と言っていたそうだが、いったい何処へ逃げるつもりでいるのか。
自分も含めて私たちは電力の無駄使いが多すぎると思う。オイルショック(1973年〜・1979年〜原油供給減少、原油価格高騰、世界経済混乱)の時には街のネオンは一斉に消えた。昼間は電気を極力消すようにし、蛍光灯を何本も使っている会社などは、蛍光管を半分ぐらい取り外して協力した。それでも生活は出来たし、決して不自由とは思わなかった。自分達、あるいは子や孫の健康が大切なのか、今の快適な生活が大切なのか、そのところをもう一度じっくり考えてみたい。