掛川タウン誌
78%KAKEGAWAの発行人のやなせかずこが取材や仕事を通じて思うがままに書き綴った日記。
1985年 Vol.60
1985年2月2日

横須賀市で反トマホーク草の根署名運動が5万人を突破した。発起人の一人である品川哲朗さんが活動の間中、頑ななまでに守り続けてのは「無党派」という一点であったと言う。市民運動というと必ず政治色の強いものになってしまうからだ。品川さんは「核兵器はいやだというのは、ごく当たり前の市民感情。反核に右も左もない」というのが持論。こういう運動は、ともすれば政治性ばかり表に出てきてしまう。あまり政治色が出てしまうと、自分の支持する政党以外は受け付けないという市民感情が出てきて、公平な支持は得られないからだろう。
宇都宮でも10年前から「市民の会」が発足している。どの政党のひも付きにもならず、何か問題が起こったときに立ち上がれる市民の回路を作り、市政に対して無言の監視をしていこうという団体である。「市民ジャーナル」という機関紙まで発行しているという。
今、掛川に一番必要なものは、こういった市民運動団体だと思う。住民の生活を守るのは政治家でもなく政党でもない。住民自身がしっかりとした考えを持ってないと、どんどん押し流されてしまう。新駅設置の件に関しても、これだけ無理矢理推し進めるつもりでいたなら、なぜ前もってそれなりの準備をしておかなかったのか。計画性というものがまるっきりない。行き当たりばったりの政治である。不都合なことが起これば全て市民にかかってくる。これほど恐い政治はない。市長は寄付金について「出さないと恥ずかしくなる様な態勢にもっていく」と、堂々と新聞でも発表している。良心の欠片もないこの言葉に、非常にショックを受けた。これからの掛川を考えたとき、不安ばかりが募る。

1985年2月12日

本日、とんかつのまえだ様が「78%を読んだお客様からおつりをカンパに回してくれと頼まれました。」とわざわざ事務所まで届けて下さいました。紙上を借りてお礼を申しあげます。ありがとうございました。発行人と致しましては、応援して下さる読者の方がいると思えば、いつものことながら意欲が湧いてくる。今日一日さわやかな気持ちで仕事が出来そうだ。期待を裏切らないように、今まで通りの方針で編集を続けていきたいと思っています。

1985年2月11日

今日は、私にとって記念すべき日である。岡林信康さんという、素晴らしいシンガーソングライターに会えたからだ。歌の中から語りかける様に常に何かを訴え続けている岡林信康さん。一度ならず、二度も握手を求めてしまった。年甲斐もなく、いつか再び会える日を夢見ている。

1985年2月14日

午前7時10分頃、事務所前の平島屋から出火。ユミヤ倉庫、桐田医院、タカムラ洋品店の一部を焼いて2時間後に消えた。倉庫を含めて8棟も焼けてしまったそうです。私は自宅でサイレンを聞いたが、どこなのかはっきり聞こえなかったため、一時間後に知人から電話をもらったときはびっくり。今日は風も強く乾燥していたこともあって大火になってしまったが、焼け出された人達は、想い出の品も何もかも失って、これからが大変である。不注意というのは誰でもその可能性を持っている。私も鍋を火にかけたまま外出し、狭い台所がものすごく熱くなってたことがある。火を甘く見てはいけないとつくづく感じた一日であった。
1985年 Vol.61
1985年3月5日

最近全国で小・中学生のいじめが問題になっている。一人がいじめ出すと連鎖反応なのか、自分がいじめられては大変と思うのか、たった一人を徹底的にいじめる。私の姪は生まれたときから「の心臓病で、このままでは何年持つかわからないと言われ続けて、現在小学校4年(今度5年)になる。医者は奇跡だと言っているそうだが、調子の悪い時は顔から手までどす黒くなる。心臓に負担が掛かるために動作も鈍く、歩くにもみんなの2倍も3倍もかかる。食事をするにも休み時間いっぱいかかってようやく食べ終わる状態だ。そのため3年生の頃から「汚い」といじめられる様になり、蹴られてアザを作って帰るようになった。冬の寒い日にバケツの水汲みを命じられたりと、いじめはエスカレートするばかり。最近は登校拒否をおこす様になったという。それでも徐々にかばってくれる子も出てきたそうだが…。
「なぜ学校に相談しないんだ」と言ったら、「学校にあまり言っていくと養護学校か特殊学級に入れてくれと言われる。そういう前例があったからとても言えない。特殊学級に入ったら一生その烙印を押されるんだから…。それに子どもが汚い物を汚いと言う気持ちもわからないわけではない。本人にもひとつの試練だと言い聞かせているし…。それに医者が手術をすすめてくれるのでそれに賭けてみようと思って…。」といたって消極的。
きまた先生に相談したところ、いじめの問題は教育者次第で、養護学校や特殊学級に入れるというのは完全な差別で、自分達にとって厄介な事を他に押しつけてるだけだ。教育者自身がそういう考え方では絶対に子ども達は変わらないそうだ。これからもそういった問題は次々に出て来るだろう。そういったいじめに遇う人達のためにも、姉にもっと強くなってほしいと思う。
いたずらや活発に遊ぶ子どもの服や靴はすぐに汚くなり、泥やシミは洗ってもすぐには落ちない。掛川のある小学校の教師は「もっときれいな服や靴を履かせてくれ。」と親に言ったそうだ。物を大切にする事を教えなければいけないのに。それでも、子どもという人質をとられている以上、どの親も問題を大きくする事を避けている。親は子どものためにもっと強くなるべきだ。

1985年3月16日

またまた新幹線の話で恐縮だが、東北新幹線の上野駅が3月14日に開業した。33基ものエスカレーターに、天井はシャンデリアの照明という豪華版。赤字、赤字と言っている国鉄が、800億円ものお金を注ぎ込んで作った駅である。
地震対策のためにも必要な駅だといわれている掛川駅には、国鉄は「赤字だからびた一文出せない。」と言っている。こんな矛盾した話ってあるんだろうか?いくら乗降客の多い駅だからと言ってもシャンデリアが必要なのか?健康な人間は階段を利用すればいいではないかと、つい言ってみたくなる。上野駅とはいえ、民間企業ではないのだから「国鉄の勝手」とは言わせない。赤字の補充は国民の税金で賄っているんだから…。掛川市民だけは、まともに税金を払っていないわけでもあるまいに、なぜ掛川市民だけが多額の寄付金を供出し「血のにじむような努力」を強いられねばならないのか。地元の政治家に力あるなしで、こんなに差別されるとしたら、これは大問題。その辺のからくりがどうなっているのか、無知な私には到底判らないが…。

1985年 Vol.62
1985年3月17日

昨日。知人のお宅へ伺ったところ、仲人の人が15日(金)の午前中に出かけたまま帰ってこないと大変な騒ぎ。話を聞いて「自殺か蒸発じゃないの」と言ったら、「全く動機がないから考えられない」という返事だった。仕事も順調にいってるし、借金もないし、女性関係があったわけでもないし、ただ、奥さんに一度だけ「今の仕事をやめたい」ともらしたことがあったという。私にとっては一面識もない方だったが、気になって今日もう一度電話してみた。そしたら、「静波の松林の中で首を吊って自殺をしていた」という返事が返ってきた。悲しい知らせに胸が詰まった。42才だったそうです。人間って、なんて弱くて悲しい生き物だろうと、つくづく感じる。動物は決して自分から命を絶つようなことはしない。食べるものが無くなっても必死に生きようと努力する。人間は食べるものが有っても自ら命を絶とうとする。今日一日、なぜか?とずっと考えた。結局は「自由」がないからだという結論に達した。いつも社会に縛られ、家庭に縛られ続けて一生を終わる人がなんと多いことか。よく本人が死んでしまった後で「死ぬくらいならなぜひとこと言ってくれなかった」と言うが、話してもわかってもらえなかったから死を選ぶということもある。そして、本人自身も世間体や家族の生活のことを考えて、自分の自由な生き方を押し通すことができないということは、日常生活の中にいくらでもある。世間体や見栄をかなぐりすてて、もっと自由な生き方はできないものだろうか。

1985年4月2日

昨日は、日中とても暖かく、半袖のポロシャツに麻のジャケットでさっそうと事務所にやってきた。仕事で大東町の方に出かけたら、桜が至る処で咲き乱れ、いつか花見をしながらのドライブに早変わり。桜の花びらがひらひらと舞う中を、車で走らせるのは最高にいい気分。ところが、夜になったらだいぶ冷え込み、半袖なんか着たことを悔やむ。朝方、車に乗ろうとして窓を見たら霜がビッシリ。このところずっと暖かかったので、久しぶりの霜である。薄着で来た日に限って…。霜を見た途端に震えが来た。

1985年4月10日

今年になってから、お風呂から上がるときに冷水をかぶることに決めた。冬の水は切れるように冷たい。最初は特に勇気が要る。足にぐっと力を入れて構えた姿勢のまま水をかける。その内に慣れてくると次第に体中がポカポカしてくる。毎日、今日はどうしようかと悩みながら、ずっと続いている。おかげで、毎年小児喘息(ぜんそく)(病院の先生が言っていた)と闘っているのに、今年はまだその気配がないのでありがたい。喘息の苦しさは当人しかわからないだろう。私の場合はごく軽いものだけど、それでも眠る前のあの苦しさはたまらない。ただし、喘息には効果があったが、アレルギー性鼻炎には効き目がない様で、今年は鼻詰まりに悩まされている。まったく、鼻炎のおかげで美人が台無しだ。でもあと一年は続けてみようと思っている。始めるのが遅かったので、今年に間に合わなかったとうことも考えられるからだ。どっちにしても身体を鍛えることはいい。風邪も引かなくなるし…。これはすでに実験済み。みなさんも、暖かくなったらぜひ始めてみて下さい。
1985年 Vol.63
1985年4月30日

東高の生徒が、遠足のお土産をわざわざ事務所に届けてくれた。法多山のお団子、とてもおいしかった、どうもありがとう!

1985年5月3日

2〜3日前に国道一号線を走っていたら「すいか500円より」という立て看板が目に留まり、車の中から覗いたところ、なかなか大きくて見事なスイカが並んでいた。ところが、父親から聞いた話によると、500円のスイカは大きいスイカの後ろの方に直径10センチ位のものが申し訳程度に置いてあったそうだ。見た目とても食べられるような代物ではなかったという。他は全部3500円以上。途中子ども連れで来たどこかの奥さんは、3500円と聞いて子どもの手が引きちぎれんばかりに引っ張って帰って行ったそうだ。その売り手のおじさんの口から出た一言は「男の人は必ず買っていくけんが、女衆はせこいもんで、まず買っていく人はいないな…。」結局、父も3500円のスイカを買ってしまった。ついでに「3500円のスイカは中が空洞になっているが、4000円のスイカなら絶対間違いない、保証付き!」と言ったそうな。500円のスイカに釣られていくのは男も女も同じ。女がせこいのではなく、男が見栄っ張りなだけである。

1985年5月14日

夕刻、スーパーのレジで並んで待っていると、私の前の若い女性がカップラーメン2個、パック入りのホットドック(2本入り)バナナ、ポテトチップスの買い物をしていた。ふと見ると、お腹が大きいのです。「まさか、これが夕食の食材??」と、想像力のたくましい私は、一瞬考え込んでしまった。これが夕食の食材とは信じたくないが、今は包丁やまな板のない家庭も結構増えているそうなので、ちょっと心配だ。これでは子どもに回る栄養なんてありゃしない。健康な赤ちゃんを産むためには食生活も大切な要素のひとつ。手作りの料理、頑張って作って欲しいものだ。
以前、友達の家に招待されたとき「私、料理が下手だから何か作って…。」と言われ、なぜか招待された方が料理を作る羽目になった。「味噌汁作ったことがないので味噌汁作ってくれ」「ジャガイモあるからこれで何か作ってくれ」「鍋物も食べたい」と、何かアンバランスな献立だったが、言われるままに作ってあげた。ご主人も子どもさんも「うまい、うまい」とむさぼるように食べていた。友人は「やなせさんって料理うまいね。」と感心していた。「鍋物なんて、お湯を入れた鍋に具をつっこむだけじゃない。こんなもの料理じゃない。いったいあんた達は毎日何をたべてるの。」と私。「デパートに勤めていると、出来合の物で間に合っちゃうんだよね。」と友人。若い人達が料理を作れなくなった原因は、やっぱり親の責任が大きい。家事をやらせなくなったからだ。男の子も女の子も分担を決めて、もっと家の手伝いをさせるべきである。

1985年5月15日

今日は、私の姪が心臓の手術をした。手術の前「お母さん恐いよお。」と泣きながらしがみつく姿に、このまま連れて帰りたいと思った。しかし、手術室に入って行く時父親に「頑張ってくる」と言った。その言葉通り、延々7時間に及ぶ手術に耐えた。終わった後医者は「奇跡だ。自分達が思っていたより2倍も3倍も順調だ。」と言った。看護婦に抱えられて手を振り手術室に入っていったとき、替われるものなら替わってやりたいと思った。多分、両親も同じ思いであったと思う。退院したら「よく頑張った」とほめてやりたい。