掛川タウン誌
78%KAKEGAWAの発行人のやなせかずこが取材や仕事を通じて思うがままに書き綴った日記。
1984年 Vol.56
1984年10月8日

東中の生徒から匿名で投書が来た。内容は「あれも言いた、いこれも言いたい」コーナー掲載してありますが、まず中学生とは思えぬしっかりとした内容でびっくりしてしまった。それにしても、最近は東中生徒の間で、学校や教師に対する不満が充満しているのに、PTAが何も手を打とうとしないのもおかしな話だ。今回の生徒会選挙の件も、もし事実ならば絶対におかしい。校則でどのように決められているのかは知らないが、生徒会というのは、生徒を代表する者を生徒自身が選出するものであって、教師や学校側が押しつけるものではない。大人の間でも選挙違反をすれば検挙されるのに、教育をする場でこんな事がまかり通るとしたら問題だ。教師自身をもう一度教育しなおしてもらいたいものである。今回選ばれた生徒自身も、被害者であることを痛感する。生徒が一丸となって学校側に理解を求めることは大いに賛成するが、選ばれた生徒に対する集中攻撃だけは避けて欲しい。当人達には何の責任もないのだから。私たちは常に弱者のためにありたいと思う。弱い者同士でも、手をつなぎ合えばきっと大きな力になるはず。これだけの内容の投書を書くからには、随分勇気がいったことと思う。心から応援したい。

1984年10月9日

また今年も祭りの時期が来てしまった。事務所の前は実に騒々しい。実のところ、自分自身の生まれ育った町でもないし、祭りという行事に縁もなかったせいか、どうも感心が薄くて困る。だから、掛川人の祭り好きが理解できないのだ。それにしても、この期間中、街中が通行止めになってしまうのには閉口する。駐車場にも入るに入れない。昨日なんか夕方6時過ぎらた閉めだししをくっちゃって、参ってしまった。急ぎの仕事は待っているし、あっちへウロウロこっちへウロウロ。祭り好きの掛川人には申し訳ないが、早く終わってほしいと言うのが本根。でも、結局は掛け声につられて見物に行ってしまいました。この時期が来ると「今年も祭りの特集やるんでしょ?」と言ってくる人が必ず何人かいるんですが、残念ながら今年はやめました。もうネタ切れ…。それに、紙面の都合上、全部の町内を掲載できないのです。掲載していない町内があると必ず後で苦情が来るから…。

1984年10月12日

事務所にやってきた友人が「グリコ森永事件の怪人21面相の犯人は誰だと思う?」と聞いてきた。「女、子どもがいるというから一家総出ってことも考えられる」と私。「う〜ん、俺はね、犯人はカバヤだと思う。グリコ、森永のライバル商品を店頭から消して、カバヤのジューシーとポンカンをスーパーの店頭に置くのが目的。これしか考えられん。」結局、結論はカバヤの社長一家ではないかという推理で終わった。カバヤさん、すみません、ほんの冗談ですから。みなさんも本気で考えないように…。それにしても、カバヤのポンカン食べたいなあ。

1984年10月16日

最近、読者からの投書ハガキが多くて嬉しい悲鳴を上げています。先月も掲載しきれず今月号に回したものも何通かあったので今月は1ページ増やしました。それでも掲載しきれずに来月に回させていただくものも10数通でてしまいました。ハガキを下さった方は々次号までお待ち下さい。
1984年 Vol.57
1984年10月25日

最近、国民年金を掛けるのをやめようかなと言う人が増えている。国民年金以外の郵便局や生命保険会社の年金制度を新たに加えているひとも多い。ここで郵便局や生命保険会社を宣伝するつもりは毛頭ないが、老後に不安を感じている人は私だけではないことをつくづく感じる。国民年金の場合だと本当に少ない。今度の改正で益々少なくなった。40年掛け続けても手元に来るのは月に5万円位。これではとてもひとり暮らしはできない。片や、コアラには5億円以上ものお金を掛けている。必要の無い自衛隊の飛行機が飛ぶ度に、墜落する度に税金が消えていく。どうも割り切れない。いくら5億円ものお金を掛けても、コアラにとっては、仲間のいる自然の中で生活する方がいいに決まっている。どうも日本人というのは、金に飽かして、珍しいものが出るとすぐに飛びつく。そのくせ次の物が出て来ると、もう見向きもしない。パンダも然り、えりまきトカゲも然り。日本人の金儲けのために何匹のえりまきトカゲが犠牲になったことか。浅ましい商人と浅はかな消費者の狭間で、動物たちはさぞ嘆いていることだろう。年金の話からそれてしまったが、とにかく安心して老後を迎えられるような政策を望みたいのに、どんどん反対の方向に進んでいるようで、ますます不安は募るばかりである。

1984年10月30日

朝の6時頃、仕事で静岡に行った時のこと。東名高速道路を走っていたら、前を走っているトラックが右に寄ったり左に寄ったり、フラフラしている。危なくてしょうがないので、一気に追い越そうということになり、横を通り過ぎる時に運転手の顔を見たら、なんと口をポカ〜んとあけて居眠りしているではないか。後続のトラックがクラクションを鳴らしたのか、暫くしてから正常に戻ったようだったが、その後も注意して他のトラックの運転手を見ていたら、やたら居眠りしているみたいで、恐いのなんのって…。こんな恐ろしい東名はとても走れないと、帰りはひたすら国道を走って帰ってきた。一晩中走り続けている運転手の人達も大変だと思うけど、やっぱり居眠りは危険です。くれぐれも居眠りしないように、休息を取って安全運転でお願いします。

1984年11月4日

仕事中、底冷えがして寒くてしょうがないので、ついにストーブを使う。まだ11月の初めだというのに、仕事が終わって返る時、車の窓硝子がカチカチに凍っていた。今年の冬も寒そうだ。

1984年11月8日

今日、取材で久々に生涯学習センターに行った。歩いてビックリしたのは、床の段差。全体的に波が打ったようになっている。ひどいところは4〜5cmも陥没している。中には剥がれ掛かっているところもある。正式にオープンしたのは昨年の7月8日である。一年と数ヶ月しか経っていないのに、である。当初から建築の専門家の間から「池を埋め立てて、すぐに建ててしまうなんて無茶だ」という声がたくさんあった。専門家でなくてもそう思うのは当然だろう。生涯学習センターを作ったことに対しては何の異論もない。素晴らしいことだと思う。要するに、作った場所に問題がある。少し焦りすぎたようだ。当初の予算を10億円もオーバーした結果がこれである。今更こんな事を言っても仕方ないが、全てに対してもっと慎重になってほしい。
1985年 Vol.58
1984年12月7日

「女は強欲で、嫉妬深く、愚かだ。」これは中国での女性の評価である。それに対する小話もある位で…。《一人の独身女性がいて、その女性の家の東隣には、お金はあるが顔の悪い息子がいる。西隣の息子は水もしたたる様ないい男だけれど、お金がない。この両隣の息子から結婚を申し込まれた娘は大いに悩んだ。ある日母親が「お前、どっちの息子と結婚するつもりか」と娘に尋ねたところ、「両方と結婚したい」と答えたという。「どうして?」と聞くと、「食事は東隣の息子として、夜は西隣の息子と寝たい」と答えたそうな。》(私も出来ればそうしたい)しかし、どこかの団体から抗議が殺到するだろう。「女みたいな奴」だとか「女性らしく」なども女性差別用語だそうです。日常何気なく使っている言葉の中にも、男女差別用語はいくらでもある。私自身も仕事を通じて、女性差別を痛感しているし、苦い思いを何度もさせられてきた。でも、やっぱり男と女は根本的に違う。男性が子どもを産めないように、女性は肉体的な力関係に於いては到底男性にはかなわない。確かに男性よりも仕事の出来る女性も多勢いるが、一般的に、仕事は結婚までの腰掛け程度に考えている女性が多いのも事実である。女性でも一生懸命やってれば、それなりに周囲は評価してくれるものである。全ての女性自身が、根本的に考えを正していかなければ、男女間の差別は絶対になくならない。三食昼寝付き、結婚して子どもを育てることだけを夢見ている限り、絶対に変わるはずないのである。言葉尻だけを捉えて「差別だ」と叫ぶよりも、女性自身の意識の向上を訴えることの方が大切ではないだろうか。

1984年12月12日

毎週一回、高橋君を中心に高校生たちが編集室に集まって座談会を行っている。学校や大人に対する不満をぶちまけたり、テーマのない話し合いを重ねているが、回を重ねる度に輪が広がりつつある。私たちはできるだけ関知しないようにしているが、結構楽しそうにやっている。しかめっ面をして仕事をしている私たちと対称的に、隣の部屋からは若者らしい笑い声が絶えず聞こえてくる。私たちはひたすらサービスに努めるのみ。コーヒーを入れたり「今日はあんまんないんですかぁ?」と言われれば走って買いに行き「あっ、焼き芋屋!お腹空いたなぁ」と言えば表に飛び出していき(幸いなことに(!?)焼き芋屋は見当たらなかった)至れり尽くせりのサービス(のつもり)。こちらもそれが楽しみである。高校生も一週間に一度の集まりが、結構ストレスの解消になっているのではないかと思う。誰でも参加できて、不満に耳を傾けてくれ、こんなこと言ったら後で何か言われるのではないかと気にすることもなく男女別なく、楽しく話が出来る。こんな雰囲気が校内(先生)と生徒の間にあったなら、もっと違う方向に向かっていくのではないかとも思う。もっとも、学校という枠の中から離れているから、自由になれるのかもしれない。でも、高校生の話の中から、先生とも話し合ってみたいと言う話が出ている。こういった活動に理解のある先生がいましたら、ぜひ一緒に参加してもらいたいと思う。まだ参加していない高校生も大歓迎です。もちろん差し入れも大歓迎!
1985年 Vol.59
1985年1月1日

昨年の暮れは、30日に餅つき31日におせち料理作りと、なかなか忙しかった。ようやくおせち料理を作り終えたのが午後11時。竹の器に黒豆を入れ、一の重、二の重、三の重と詰めていくごとに「新年を迎える」実感が湧いてくる。南天の実と松葉で飾り付けたら、見栄えもなかないい。我ながら惚れ惚れする。他人は私がおせち料理を作るというと、びっくりした顔をする。味の方はちと自信がないが、せめて手作りの味を楽しんでもらえばそれで十分。それでも、黒豆とたたきゴボウの評判は上々。気を良くして来年も頑張ろうと思っている。さて、おせち料理を作り終わった後は、そのまま豊川稲荷へ初詣。豊川は私の生まれ故郷でもある。東名のインターからずっと渋滞。車の渋滞が終わったと思ったら、今度は人の渋滞。豊川稲荷の入口からずっと混んでいる。寒風の中に一時間以上も並んで待っているのは本当にバカくさいと思いながら、特別に信仰心があるわけでもないのに順番を待ってしまった。寒くてしかたないので、なるべく人波をかきわけて、中央の人と人の間にもぐり込んでいった。人が壁になって結構暖かいのです。長い間待たされて、ようやく順番が来たと思っても、お賽銭を遠くから投げただけで、そのまま人の波に乗って外に押し出されてしまう人が大半。いったい何しに来たのやら。下を見れば、一円、五円、十円が無造作に転がっている。今年の不景気を予想し、それを物語っているかのように、お札は1枚も舞っていなかった。

1985年1月4日

今年は新年早々いい本に出会った。石元シゲ子著「いのちの底が抜けたァ」という本だけど、私が今まで読んだ本の中で、これほど痛烈に圧倒された本もない。この本との出会いは、ある雑誌の読書日記からである。
「石元シゲ子さま。書評とは読者に著書を紹介し批評を加えるものと思うのですが、この本に限ってはとてもそんなことはできません。あなたが過ごした戦争、戦後、11才から15才までの凄絶な記録に圧倒されて、グウの音も出なくなってしまったのですから。5年生で小学校を中退し、自ら志願して生糸女工になり、工場の図書室の本を片っ端から読んで、古代史に親しみ、さらにひそかに手に入れた『蟹工船』や『与謝野晶子短歌集』を特高に見つけられ、はげしい拷問を加えられた12才。飢えと工場配属の陸軍将校の虐待に耐え抜いた敗戦まで、彦山川のホイト(乞食)小屋に帰郷し、貧窮の底で暮らした後、また紡績工場勤めに旅立つ日々。それをつづるあなたの文章は、プロを自任する物書きなど、逆立ちしても及ばぬ鮮烈さです。(以下略)」
その通り!また、石元さんが作者補注の中で「川上ハジメという学者が書いた『貧乏物語』を読んだとき、私は思わず吹き出した。ほ、ほう、この学者は、ほんとうの貧乏というものを知らんナ、と思った。『貧乏物語』なんてものは、学者がペンの先で書くものではない。あれは腹の虫に書かせるべきです。」と言っている。著者の貧困と差別に泣いた魂の慟哭が、私たちにさまざまな問題を投げかけてくる。「百聞は一見にしかず」中学生でも理解できる文章体なので、とにかく一人でも多くの方に読んでもらいたい。私は、時間のあるときにもう一度じっくりと読んでみたいと思っている。