掛川タウン誌
78%KAKEGAWAの発行人のやなせかずこが取材や仕事を通じて思うがままに書き綴った日記。
1984年 Vol.52
1984年6月1日

みなさんの中で、最近はハマチのお刺身を食べた方はいますか?美味しかったですか?旅に出ると旅館の食事でよく出ますが、最近は殆ど養殖ハマチなんだそうですね。高級な魚だから出されると喜んで食べるのが消費者。ところが、ハマチを養殖している生産者は、ほとんど食べないんだそうです。もったいなくて食べないのではないんですよ。その理由は、半分以上が奇形で、背中が曲がっていたり、目が飛び出していたり、内臓が腫れ上がっていたりするんだそうです。
ハマチを太らせるために、イワシのエサをいっぱい養殖の網の中の海に投げ込み、食べきれずに海の底に沈んだエサは、腐って発酵し、淀んだ水の中には魚にとりつく病原菌がいっぱい。それを殺すために、人間に飲ませたら死んでしまうほどの量の抗生物質を、網の中に投げ込んでいるそうです。それどころか、最近では薬では効かなくなったので、強力な農薬まで使っているそうです。こういった事は手段を選ばずどんどんエスカレートしていくんですね。
恐ろしいことです。以前、瀬戸内海のどこかで赤潮(微生物の大繁殖のために海水が赤茶色に見える現象で原因は栄養豊富な生活排水と言われている)が多量に発生して、養殖のハマチが全滅した時、地元の漁業組合が環境庁に損害賠償を請求したそうです。
自分達のやっていることを棚に上げて、外海にも出かけず入江の養殖だけの漁師(?)が、自分達の海を殺しているのです。私利私欲だけに走って自然を無視した行為です。これは漁業に限らず農業についても言えることですね。根本的なことを見直す時が来ているのではないでしょうか…。

1984年6月12日

5月号の「掛川を斬る」の特集で、読者の投書、インタビューをそのまま掲載したまではよかったが、回答をもらうために白い眼で見られながらの取材は、はっきり言って辛かったですね。一番いやな役を一人で背負い込んでしまって、こんな企画を組んだのが間違いの元だったと後悔してみても後の祭り。イヤミのひとつも言われながらの取材だったけど、それでもくじけず頑張りました。
でも、私たちは掛川を少しでも良くしたいからという気持ちで、78%を発行しているのだから、わかってくれるまではバッサバッサ斬っていくつもり。取材を終えてからは、ますます使命感に燃えている私です。(ちょっとカッコ付けすぎかな?)

1984年6月14日

最近、78%の読者参加が少しずつだけど増えつつある。「こういう事をやっているんだけど、是非取材に来て欲しい。」という要望もその中に入るんだけど、自分達で取材して原稿を書いてみたいという話も時々有って、私たちを喜ばせてくれる。地元に関すること、意義のあることなら大歓迎です。大いに利用してほしいものですね。尚、高校生のグループで、何か企画してみたい方はいませんか?本音でいろんなことにぶつかっていくことは、とても意義のあることだし、大切なことです。人間って大人になるにしたがって、世間という枠の中に押し込められ、本音の部分がどんどん狭められていってしまうのですね。出来ることなら、そんな大人社会に染まってほしくないのですが、せめて若いうちだけでも、自分の意志を貫いてほしいのです。

1984年 Vol.53
1984年6月30日

先日の大雨で、事務所の横を流れる神代地川で大きななまずが一杯とれたと聞いた。昼間は外を走り回っているのでちっとも知らなかったが、裏の駐車場の横に大勢集まって何やらタモですくっていたそうな。仕事を終わって返る時、気になって川の中を覗いて見たら、魚籠が紐でつないであった。そのひもをたくり寄せてみた所、中には長さ30cm以上もありそうななまずが2匹窮屈そうに入っていた。なまずなんて何十年振りのこと。このなまずさん、人間様にどうやって調理されちゃうのかな?それはさておき、地震恐怖症の私は、早速親戚や知人に「なまずが異常にとれたそうだから、もしかしたら大地震が来るかも知れない。準備しておいたほうがいい」と電話をかけまくった。相手は「そうっ。」と相づちはうってくれたが、余り真剣には受け取ってくれなかったようだ。もう、3日経つけど一向にその気配はない。

1984年7月5日

今月号は新幹線に関する投書が多い。今までに、一つの話題でこんなに多くの投書が来たことはない。それだけ市民の関心度が高いということなんだろう。

1984年7月10日

軍国主義の時代には言論の自由がなかった。徴兵されていく兵士に向かって「生きて帰るな」と言ったという。今の時代にそんなこと言ったら、反対にどやされてしまう。ところが当時は「生きて帰ってこい」なんて言ったのを憲兵に見つかれば直ぐに連行されていった。そんな中で「死んで帰るなよ、必ず生きて帰ってこい。人を殺しちゃあいけない。撃てと命令されたら人の居ない所に向かって撃て…」と言い続けてきた人が居たと聞いた。どこのどなたか知らないが、これこそが本当の勇気だろう。死ぬことが勇気と考えていた人達は大きな間違いを犯していた。そして、現在も言論の自由があると言うが、今も昔もたいした変わりは無い。昔みたいにひどいことはしないにしても、実際には権力の力に押しつぶされた団体や個人も多い。私も先日ある人に「どんなことでも自由に発言できるこういう雑誌はすごく大切だと思うけど、その内に圧力がかけられるかもしれないぞ。」と冗談交じりに言われたことがある。それは最初から覚悟していたことでもある。しかし、誰にでも言いたいこと、訴えたいことはいっぱいある。それが正しくても、正しくなくても発言できる場があって当然だと思っている。その考えが間違っていると思えば、みんなで意見を交換していけばいいのである。一つの思想、政党に凝り固まるのではなく、常に平等の立場でいろんなことを考えていきたいと思っている。こういう雑誌とか新聞は、そうざらにないと思っているんだけど…。不満な点も多々あると思いますが、年を追うごとに支持者が増えてきているということは、それがひとつの魅力となっていると自負している。今のところは、大した圧力もかかっていないのでまだ続けられそうです。

1984年7月12日

クーラーの付いていない車の中は昼間はまるで蒸し風呂の様。それでも冷房の効きすぎる所にいるよりは、健康にいい。昨年は身体がおかしくなってしまった。サウナに入ったつもりで汗をいっぱい出します。
1984年 Vol.54
1984年8月3日

中学生の「本音」を聞くために、あるお宅を訪問させていただいた。集まってもらった彼女たちは、教師に対する不満がうっ積しているようでよくしゃべった。そして、インタビューが終わった後、写真を載せてもいいかと聞くと「ぜひ載せてほしい」という。しかし、帰り際に母親に呼び止められ「写真は止めて欲しい。学校名も個人の名前も伏せて欲しい。」と頼み込まれた。理由は、学校に知れたら大変な事になる、それにほかの父兄からも何を言われるかわからないとのことでした。彼女たちがこれ以上責められたら可哀想だと思い、すべてを伏せることにした。(約束破ってごめんね)それにしても彼女たちが言った「私たちにはどこにも訴える所がない」という言葉が引っかかる。NHKの取材班が学校に取材を申し込むと、大半が取材を拒否するという。学校にとって都合の悪いことは、できるだけ表面に出さないようにしたいのだろう。そして、最悪の事態が発生しだすと、あわてて警察に駆け込む。子ども達は、ただ自分の意見を聞いて欲しいだけなのに…。納得すれば反発だってしないはず。教師も親も、ただ押さえつけるだけでなく、一人の人間として尊重してやってほしい。「子どものくせに」と言われても、子ども達なりに大人の矛盾や身勝手さを敏感に感じ取ってるのだから。

1984年8月5日

今年もあと少しで終戦記念日がやってくる。戦中派の人々は、戦争が語られる度に「あなた方は何をしたか」「その当時戦争を否定したか」「殺人を犯した」と責められる。8月号で「戦争の重圧と疎開」の特集を組んだ。その後で、暮らしの手帖で発行した「戦争中の暮らしの記録」を読んだ。その中で、戦中派の男性は「あの戦争を闘い、そして敗れたがゆえに一切の旧権力はくずれさり、憲法は改定され、農地は開放され、軍と憲兵と特高とがなくなった。あの戦争がなく、そして敗れなかったらこのような変革は起こりえなかった筈です。まったく高くついた『自由と平和』でした。自由と平和を望んで始められた戦争ではなかった。でもあの戦いなくして今日の日本はありえなかった。あの戦いを愚かで虚しいと言い切ってしまうことは、母が泣いて止めるのを振り切って志願して行った学徒兵たちの死が犬死になることです。私たちの父や兄が血であがなった『自由と平和』を守るために、今われわれは反戦の旗を高く掲げるのだと、あなた方はなぜ言わないのでしょう。お前さんたちが守れという『自由と平和』は一体誰のおかげで手に入ったのだと、暗い気持ちで私はつぶやくのです。やっぱりわかっちゃいないんだ。そう思うと淋しくなります。(一部略)」という手記が寄せられていた。私にとっては、なによりもその手記がぐさりと胸に突き刺さった。確かにあの戦争がなかったら、勝っていたら、軍国主義は今なお続いていたかもしれない。青年は徴兵の義務を果たし、女性は家制度の下につつましく暮らしていたかもしれない。大勢の人達の犠牲の上で現在の私たちの生活があるのなら、今度は私たちが『自由と平和』を守り続けていかなければならない。

1984年8月14日

最近、書店に行ってつくづく感じることは、コミック漫画、車、バイク、男性・女性週刊雑誌の類に人気が集中して、他のコーナーは閑散としていること。本が氾濫しすぎていることも活字離れの一因ではないでしょうか。
1984年 Vol.55
1984年8月18日

今日は、戸塚進也国会議員が新駅建設について街頭演説をしていた。「富士市は明日にでも120億円を用意できると言っている。だから掛川でも用意して欲しい…」と声を張り上げた。掛川市と富士市の財政状態を比べてみれば無理なことは一目瞭然。市長のお宅の資産とレターハウスの資産との違い位あるのだから…無い物ねだりは止めて下さい。地元を代表して選出された議員なら、市民の懐をあてにすることばっかり考えないで、国鉄、国、県から出してもらうように、先に働きかけるのが当然。それを「お金はこちらで用意しますから、ぜひ新幹線の駅を…」では、誰のための代表者なのかと首を捻りたくなります。あまりのバカバカしい内容の演説に、開いた口がふさがりませんでした。

1984年9月14日

先日のお手紙の中で、今月号の78%に対するご意見をお聞かせ下さいという欄に「方言はやめてほしい」という意見がありました。そうしたら今日また取材した高校生から「方言をそのまま書かないでね」といわれてしまった。理由はきたない言葉だからとのこと。だけど、よ〜く考えてみてください。各国によって言葉が違うように、日本の各地方によって言葉が違っていても、結局は外国語と日本語の違いと大差ないと思うのです。78%は地方の雑誌だし、何も取り立てて飾る必要もないし、気取る必要も無いと考えます。カッコ良さを求めれば暖かさが失われます。以前、博多の方の雑誌を読んだとき、博多弁が随所に使われていました。とても博多らしいと思いました。博多の風習や気風が伝わってくる感じがしたものです。博多弁も決してきれいな言葉ではありません。でも、武田鉄矢さんなどもテレビやラジオで博多弁で話しているのをよく聞きますが、人間が暖かく感じませんか。私は博多人なのだ、静岡人なのだという誇りを常に持っていたいと思うのです。読者の皆さんは、方言についてどんな風にお考えでしょうか?

1984年9月15日

今日は取材であっちこっちを回った。途中、生涯学習センターの入口の国道一号線で徒歩旅行をしている2人のハイカーを見かけた。道ばたに座り込んで、かなりくたばっている様子。それから約1時間半後、日坂の八幡宮の手前を歩いているのを見かけた。背の高い方の人は、苦虫を噛みつぶしたような顔をして、足を引きずりながら歩いていた。足のまめでもつぶれたのでしょうか…。あれじゃ中山峠越えはとても無理だろうと思っていたら、40分後にまた会った。ほとんど進んでいない。旧道の方からは、祭りの屋台を曳く掛け声とお囃子の音が響いてくる。その横で疲れ切ったハイカー2人、道ばたに座り込んでいるのだ。その対照的な光景に、ふっとおかしさがこみ上げてきた。これから行く取材先である日本で初めての有料道路の中山新道。取材しながら、ふっとさっきのハイカーの二人連れを思った。彼等は昔ならとてもこの険しい峠越えは出来なかっただろう…と。私も含めて自家用車が普及しはじめてから、歩くことを忘れてしまったかのように、車に頼りすぎています。足腰の病気が増えるのも無理からぬこと。つくづくこれではいかんと考えさせられた一日でした。帰り道、またあの2人に会った。今日はどこまで行くのか?「頑張ってね」と心の中で声をかけた。