掛川タウン誌
78%KAKEGAWAの発行人のやなせかずこが取材や仕事を通じて思うがままに書き綴った日記。
1982年 Vol.28
1982年6月2日

夜8時から今月号の特集のため鈴木兄弟の取材をした。取材が終わってから怪談話に花が咲き(?)延々2時間。取材時間よりも怪談話の方がよっぽど長かった。徹君も話すほどにだんだん熱が入り、こちらも段々と興奮してきた。おもしろいな〜こういう話、だ〜い好き。編集長の許しが出たら特集組みたい。本題の取材よりこっちの方がよっぽど興味あるんだよな。それにしても徹君の経験豊富さには驚いた。

1982年6月4日

菊川の三沢という所に行ったら、上空を飛んでいるカラスの集団の中に「アハハ…」と笑っていくカラスが1羽いた。カゴに入れられた九官鳥が一緒になって「アハハ…」。これはおもしろいと、こちらも一緒に「アハハ…」。真似をしているのはいったいどいつだっ!

1982年6月5日

最近、じゃがいものおいしい料理を研究した。こらがまた、バツグンにうまくて、食べるものがなくなると、このじゃがいも料理で空腹をいやしている。ここ2〜3日はこればっか。今日はこれにレタスとドレッシングがついて、いつもより豪華な食事風景となった。たまにはサツマイモだって食べてみたい…。

1982年6月8日

夜8時頃、一号線を走って浜松に行った。天竜川の橋の上で、真正面に花火のような光が浮かび上がった。その光った物体はそのまま北へ飛び去って行ったが、ほんの少し間をおいて、また光る物体を見た。「いったいあれはなんなんだ」と空を見ていると、あっちからこっちから、すごい音をさせながらいっぱい飛んでくる。気味の悪い音だ。「わかった!あれは税金だ、税金が飛んでいるんだ!」納得。しかし、掛川市は借金で首が回らないというのに、国はお金が有り余っているんですかねえ。税金が上がれば生活が苦しいと嘆き戦争なんか真っ平だと言いつつ、自衛隊を支持する国民も居る。いつたいこれは何なんだ!?世の中右だ、左だ、と言っている間は、平和への確証なんかあり得ないと思うけど…。(注:浜松には南と北に航空自衛隊の基地がある。)

1982年6月13日

掛一小学校の付近で車の渋滞。よ〜く見ると男の子が三輪車でうろうろしている。東高の生徒が道路の隅っこにつれてようやく解消。しかし、親は何をしているんだろうね。そういえば、スーパーでも2〜3度、親とはぐれた迷子ちゃんがいたが、「ワンワア、ギャーギャー」泣きわめいているのに、親はもちろん(?)周りの人も知らん顔。仕方が無いので一緒に親を探してやるが、見つかったときの悔しさったらないね。自分は反省すらしない。そして、こちらの方には見向きもしないで、サッサと子どもを叱りながらどっかへ消えちゃう。こないだなんかも、子ども一人に大人が二人(夫婦)も付いていながらなんだから、いやになっちゃう。子どものあの悲しそうな顔を見ると、親の無責任さに腹が立つ。親が見つかった時、子どもを探している親なんかめったにいないんだから…。自分の子どもの泣き声さえ聞こえないんだから。保護も出来ないなら、子どもなんか産むな!
怪談話が止まらない鈴木徹君
1982年 Vol.29
1982年6月18日

重い荷物を持って、トントントンと調子よく階段を降りた途端に脚を踏み外し、前を向いたまま2、3段ズズッと滑り落ちた。そのまま真っ逆さまに落ちそうになったので、「こらはヤバイ!」と、とっさに持っていた荷物を下へ落として、反対側に向いて階段にしがみついた。おかげで下まで落ちずに済んだ…。助かった!我ながら、機転の早さに感心している。しかし、その時のすりむいた傷が痛む。あ〜痛い。

1982年6月22日

事務所に友人が遊びに来た。彼の指には引っ掻き傷がいっぱい。どうしたんだと思います?なんとヘビに噛まれたんだって!青大将を見つけた彼は殺す気なんてなかったんだけど、遊んでやろうと思ったのがいけなかったんです。つかまえて振り回そうとした途端ガブッ。離そうとしても、しっかり食い付いて離れなかったそうである。ヘビだって死ぬか生きるかの瀬戸際(ヘビはそう思ったはず)になれば真剣そのもの。ちょっとやそっとでは離れません…。さすがの彼も恐ろしくて震えがきたそうだ。無理矢理引っこ抜いたので、指がざっくり…。「何か刺さっているみたいだ。」と言うので毛抜きを貸してあげたら、なんとトゲみたいな牙が出てきた。みなさん、気をつけようね、長いものには!

1982年6月27日

夜、取材の帰り道、ひとりで街を歩いていたら、20才前後の男の子から声を掛けられた。「どこ行くの?送ってあげようか…」だって。まだまだ私も捨てたもんではないと、内心ホクソ笑みながら「姥(うば)捨て山へ行く」と答えてやった。君達、目が肥えているよ…。だけど、若い女の子には「気をつけなさい」と忠告を一言。男はみんなオオカミよ。のこのことついて行くととんでもないことに…。

1982年6月28日

今日、雑誌を読んでいたら「男は女について、ブスだから仕事を頼みやすい云々、美人だったらこうしてやりたい、ああしてあげたいと、いろいろ差別したり批判するが、そんな男に限って不細工だから(これは私が言ったのではありません。雑誌に書いてあったんです。悪しからず。)美人の前に出ると途端に自信を無くして、話が出来なかったり、言いたいことも言えず、一生懸命ご機嫌をとってごまかす。いい男は自分に自信があるから、相手が誰だろうと同等に扱う。相手を批判する前に自分の顔を見ろ!」と書いてあったが、なるほどそういうことか…納得。人間である以上、顔で判断するのは愚の骨頂。男も女も。顔が良くても話をするとガッカリなんてことがよくある。私?もちろんいい女ですよ。だけど自慢するほどではありません。オッホン…。ウソつくなって?見方によっては如何様にも見えるものですよ。

1982年7月11日

朝日新聞に、ある中学生が校内の弁論大会で「平和と自由」を訴えて、教師や生徒の採点で一位となった。しかし、学校の代表から外された、と書いてあった。理由は「中学生らしからぬ文」だそうである。どうも腑に落ちない。「子どもが、いろんな本や話から、戦争について感じたままに書いたのになぜいけない!」と一部の教師と学校側とでもめているそうである。また、長崎では原爆の日に生徒達が「平和の歌」を歌うつもりで一生懸命練習していたら、直前になって歌ってはいけないことになったそうだ。ある一部の人間を除けば、戦争を望んでいる人間なんていないはずなのに、いったいどうなっているのかなあ。私たちは「戦争は二度と繰り返してはいけない」と教えられてきた。なのに、今の教育者はいったいどうなっているのだろう。私には難しいことはわからない。だけど、この先何か恐ろしいことが待ち受けているような気がしてならない。ゾッとする。
1982年 Vol.30
1982年7月26日

今日は東名の牧之原で大きな事故があった。かなりの死傷者が出たようだ。静岡〜袋井間は上下線ともインター閉鎖され、国道一号線はかなり混雑した。事故のニュースを聞きながら、とばっちを受けた人達はもちろん、事故を起こした本人や家族のことを考えると胸が締め付けられる思いがする。いまや交通事故は人ごとでは無く、いつ自分や家族が直面するかわからない問題だからだ。小さな接触事故など日常茶飯事である。車社会になって便利になったのはいいけど、その反面、危険はそこいら中に転がっているのである。マナーの悪い運転手、マナーを知らない運転手がいっぱいいる。それから、現在の取り締まり方法にも問題があるような気がする。先日、連雀・中町の交差点を通過する際、駅通りからくる一方通行の道路から、赤い乗用車が走ってきた。もちろん違反である。しかし、その赤い乗用車が交差点に差しかかった所に来てから白バイが追っかけてきたのです。その時の状況がどう言う状態にあったのかは知りません。しかし、その近辺の人達に話を聞くと、進入禁止区域から少し外れた場所で見ていて、入るのを見届けてから追いかけてくるそうなんです。指導的な立場にある警察がわざわざ違反をさせておいてからつかまえるなんて…。もしもその間に事故が起きたらどうするのでしょうか。偶然見つけてすぐ追いかけてきたのなら話はわかりますが…。運転者が違反をしないのはもちろん、警察も違反をさせるのではなく、もっと指導的な立場で取り締まりを行ってほしいと思います。それでないとますます市民の反感をかうことになりますよ。

1982年8月4日

今日は相良町の大興寺に特集の取材に出かけた。二十八代までの住職の墓石が並んでいる裏山に行った途端、ヤブ蚊が一斉にお出迎え。いいカモが来たと思ったのか。一斉に血を吸いに来るのだからたまらない。編集長より常々「虫を無闇に殺すな」と言われているので、殺すわけにもいかず、まいったまいった。着ている服の上からだって刺してくるんですよ。手を振り払おうが、息を吹きかけようが図太く食らいついて離れない。「みんなで刺せば怖くない…」のかな?帰りは車の中でボリボリ。刺された箇所は数知れず、アアーかゆい、だれか背中かいてくれぇ〜。

1982年8月8日

浜松からの帰り道、雷を伴った大雨と遭遇した。車の中は絶対に安全だと聞いていたが、やはり目の前で光と同時にものすごい落雷の音が聞こえてくると、つい目と耳を塞ぎたくなる。雷は私たちを乗せた車と一緒に走っているみたいだった。途中、信号機に差しかかる直前で信号機のランプが消えてしまった所が2カ所あった。袋井まで来たとき目の前で花火が上がった。大雨でみんな帰って行くせいなのか、ボンボンボン(早口で読んで下さい)次から次へと打ち上げられていく。一度に2〜3発上がってるんだからその凄さったらない。雷の光と花火を見るので目は忙しく動き回る。特に袋井を去る頃の激しかったこと。あせって上げている様子がありあり。とにかく首が疲れた。

1982年8月14日

今日は掛川の納涼まつり。商店街はほとんど歩行者天国となり、みんな勝手気ままに歩いている。しかし、よ〜く見ると、親子連れと中・高校生ばかり。20代の若者はどこにいるんだっ!必死に探してもそれらしき年代は数えるほどしかいない。昨年から比べると静かだなあ。
納涼まつりには20代の若い世代の参加が少ない。
1982年 Vol.31
1982年8月21日

ある新聞の切り抜きを見ていたら誤字、当て字の記事があった。「姑の健康を考え、毎日麦ご飯を食べさせて」が「毎日毒ご飯を」に置き換えると、たった一字違いで優しい嫁が転じて、殺人鬼に変わってしまう。変(編)集人としては気をつけなくっちゃ。

1982年8月26日

「私、78%を家に持って帰って、寝ながら遠州七不思議を読んでいたら、恐くて眠れなくなっちゃった」と言った人がいたけど、どうやったらそんなに繊細な神経を持ち合わすことができるのかなあ?。

1982年9月9日

8月29日に女優のイングリット・バーグマンが亡くなった。67才であった。身長173cmのよくのびた肢体と、鼻、口、目と全てが完成された美しさを持ち合わせている。若い頃の写真を見ていると、同姓でもうっとりする。「さようならをもう一度」に出演したときは46才だった。とても信じられない若さである。しかし、美人も寄る年波には勝てず、死ぬ間際の写真を見れば、やはりおばあさんという印象が強い。自分と置き換えてみた時、もともと美人の部類には到底追いつかない私は、もっともっと醜い姿になるのだろうかと思うとゾッとする。人間は日一日と衰えていくのがはっきりわかる。なんだか情けないような話だけれど、10代、20代前半の時のような記憶力は失われつつあるような気がする。今のうちにいっぱい詰め込んでおこうと、必死にもがいても無駄である。必要以上には入らない。

1982年9月12日

台風18号は、初め関東に上陸するはずだったのに、いつの間にか御前崎に進路を変えてしまった。こんなに被害が大きくなるとは努努(ゆめゆめ)思わなかった。だぶん誰も予想しなかった事だと思う。掛川市制施行以来だという。ここの事務所は静銀の厚い壁にさえぎられているため、風当たりも弱く、外を見なければほとんど普段の、ちょっと風のある日と変わらない。事務所の横を流れている神代地川も午後4時頃には、前回の台風の時より水位はずっと下だった。これなら大丈夫だろうと高を括っていたら、5時頃からどんどん水位が上がってくるのでビックリ。そのうちに消防自動車や救急車のサイレンがけたたましく鳴り始め、異常事態を感じた。5時40分頃、ついに神代地川の水が溢れて、掛川座の駐車場(事務所裏手にある)に流れ込んだ。その水が街中に流れ出すのに時間はかからなかった。逆川の決壊と合わせて、そこらじゅう至る処で水が溢れた。中央町辺りでは車が浮いたという。新町はもっとひどく、天井まで水に浸かり、ボートで救出された人達もいたという。街中は異常事態発生で大騒ぎ。子ども達だけが水が出たことで喜んではしゃぎまわっている。私にとっても初めての体験である。どこからこんなに水が出て来るのか不思議だ。被害に遭われた方々には、心からお見舞い申しあげます。

1982年9月14日

台風が去った掛川は様相が一変してしまった。水の引いた後は至る処で泥まるけ。ある布団屋さんの店外では、水に浸かった売り物の布団が山積みにされていた。市内どこにいってもゴミの山。車の修理工場と畳屋さんが忙しそうに動き回っている。人々の表情は暗い。だけど、すぐにまた元通りの活気のある街に戻っていくことでしょう。
イングリット・バーグマン