掛川西高校「茶道部」
Vol.31 1982年10月号掲載
まずは、茶道の歴史から

もともとお茶というのは、中国では座禅中の眠気をさますために用いられていたと伝えられているが、東山時代(室町時代1336年〜1573年の中期)に、村田珠光(しゅこう)という人物が精神面に重点を置き、そこに真の茶の道があると説いた。その茶道を大成したのが千利休(せんのりきゅう)である。

千利休は豊臣秀吉に切腹を命じられたが、のち千家は許されて再興し、長男の通安が茶頭となったが、病身のため次男の少庵(しょうあん)が千家二世を名乗り、利休の茶室不審庵(ふしんあん)を継いだ。

三世宗旦(そうたん・少庵の長男)には宋拙(そうせつ)、宋守(そうしゅ)、宋左(そうさ)、宋室(そうしつ)の四人の子があったが、宋左が不審庵を継いで表千家をとなえた。宋旦は不審庵の裏に今日庵(こんにちあん)を建てて隠居し、表千家に対し、今日庵を継ぐ宋室は裏千家をとなえた。

また、宋守は京都武者小路に官休庵(かんきゅうあん)を建て、武者小路千家と名のった。この地にもいろいろな流派はあるが、世に言う表千家、裏千家はこうして出来上がったのである。
茶の湯の礼儀作法を学ぶ

掛川西高の茶道部では、お茶の湯の正しい礼儀作法や心構えを学んでいる。部員は1年生が11名、2年生が9名で全員女子。週2回の活動は水曜日がお茶会で、金曜日が実習の日となっている。

和室の部屋では、部員がずらっと正座して並んでいる。まことにお行儀のよい図である。それでは、彼女たちが普段もこんなにおしとやかで、お行儀がよいのかといえばそうでもない。普段はペチャペチャおしゃべりをしたり、おっちょこちょいな面もある、ごくごく普通の女の子である。足で戸を開けたりということはないが、それでも家にいる時と、ここに居るときとではかなり違うという。一歩この部屋に入った途端、立ち振る舞いがガラリと変わる。

茶席での失敗も数知れずあるという。お茶をこぼしたり、茶菓子を小さい器に入れて持って行く途中で中身をコロッと落としてしまったり、正座で足がしびれて立てなかったり……と。こんな失敗も初めのうちは仕方が無い。かく言う私も、若かりし頃に茶道をたしなんだことがある。たしなんだと言うよりかじったと言う方が当てはまっている。私が茶道を習い始めたのは、至って簡単な動機からである。茶道には茶菓子はつきもの。これが食べたかったんです。ところが、いざ始めてみると正座が辛くて…。

茶を取りに行くとき、足がしびれて前に進まない。先生に「這ってきなさい」と言われ、みっともない格好して這っていったものである。周囲からはドッと笑い声が沸き上がり、それがずっと続いたので耐えられなくて茶道をやめた。

西高の茶道部の彼女らも全員足のしびれに苦労している。(実は今回取材に行った時、最後に取材した部長の谷さんも足がしびれて立てなかったんです。)しかし、根性で頑張ってくれました。
谷 暁美さん(2年生)部長
普段の時は今までと殆ど変わりませんが、ここへ来ると多少心構えが違いますね。茶華道ですから、華道のほうもやっているんですけど、華の方は文化祭の時くらいでほとんどやっていません。家にも茶道具があるので、それを使ってお正月の時などお茶会をやってみたいですね。今まで一茶道をやっていて番困ったときは、文化祭の時に、お客さんの前で足がしびれてしまって本当に困りました。
鷲山由美さん(2年生)副部長
今年の文化祭には着物を着て出ました。毎年文化祭には3年生と2年生の半数ぐらいが着物を着ます。茶席での作法は楽しいですね。ずっと続けていきたいと思います。
佐野裕江さん(1年生)1年生の責任者
小学生の頃、一度、西高の文化祭を見に来て、着物を着てお茶をやっている先輩達を見て、素敵だなあと思いました。茶道部にはそんな憧れで入りました。足がしびれるのが一番辛いところですね。でも、お茶はおいしいいですね。
栗田良子さん(2年生)会計
他に入る部活が無くて茶道部に入ったんだけど、今は楽しいですね。家に居るときとここに居るときは態度が全然違います。でも、お茶の注ぎ方なんか変わったって言われますから、多少は以前と違うのかもしれません。