戦争の重圧と疎開
78%KAKEGAWA Vol.53 1984年8月号掲載
まえがき
1931年(昭和6年)に満州事変が起こり、1937年(昭和12年)から日華事変、1939年(昭和14年)に第二次世界大戦が始まった。

「ほしがりません勝つまでは」「ぜいたくは敵だ」「米英打倒」「一億玉砕」(玉砕というのは、潔く死ぬことを指している)の旗印のもとに、「日本は神の国だから負けるはずがない」と信じ切っていた国民が、15年間の戦争で得た物はいったい何だったのか。

戦争で亡くなった多くの人達の犠牲と、身内や家を失い、後に残された人々の悲しみだけが残った。都会では空襲によって家はもちろん、親を失った戦争孤児が戦火の巷にあふれた。掛川・小笠地区には米軍爆撃機B29によって所々焼夷弾を落とされたが、それによって亡くなられた人はいなかったようである。しかし、徴兵されて外地でなくなった方は数知れない。

一番尊い命を。お国のためだと無理矢理捧げさせられた戦争…。その発火点は現在も世界中にばらまかれている。
戦争と河城の人
菊川町河城小学校の松本方之先生(市内鳥居町在住)は、社会科の学習で「戦争と河城の人」という地域に根ざした戦争学習を行い、昭和58年(1983年)度「教育実践記録」で入選された。松本先生は、戦争をしたない子どもたちに、身近なところにあることをわからせたいと思い、戦争を子ども達の身近な所に引き寄せて、具体的な問題として学習を行っていった。先生が調べた資料と、子ども達の感想文の中から、いくつかを紹介させていただきます。(河城小学校の学区内だけでも176名の戦死者がいたということをお知らせしておきます。)

兵士の日記から


12月27日
今日もまた数名が昇天する。ゴロゴロころがっている死体にハエがぶんぶんたかっている。この頃、アウステン山(ガダルカナル島にある)にいる兵士の間の、ふしぎな生命判断がはやり出した。
・立つことの出来る人間は…寿命30日間
・身体を起こして座れる人間は…3週間
・寝たきりで起きれない人間は…1週間
・寝たまま小便をする者は………3日間
・ものを言わなくなった者は……2日間
・まばたきしなくなった者は……明日

1月1日
昭和も18年(1943年)になった。だが、おれには何日ある命だろう。生き残りの将兵全員に、最後の食糧が分配された。乾パン2個とコンペイ糖1粒だけ。

1月3日
守兵は草木(くさった木)のように動かない。死体は足のふみ場もない。生きているものと、死んでいるものと、それからくさったものと、白骨になったものが、枕を並べたまま動かないのだ。耳をすまして聞くと日本語だ。

「皆様毎日ご苦労様です。皆さんはそおままで何日生きられると思いますか。皆さんは日本軍人として立派に任務をはたしました。米軍は皆さんの来るのを待っています。武器をすて、白い衣を手に持って歩いてきなさい。こちらには薬もあり、食糧もたくさんあります。」

のどは火のようにかわいた。もはや一滴の汗も出ない。全員うめきもがいて、よろめきながら、ただどことなく水をさがし求めて進んだ。だんまつまのうめきと共に、何人かがたおれた。狂人になってのたうちまわった…。(日記はまだ続く)


静岡連隊がガダルカナル島で全滅した事が書いてある本から


昭和16年(1941年)12月8日の真珠湾攻撃により、日本は太平洋戦争に突入することになった。

日本の陸海軍は、次々に奇襲・強行作戦に成功し、開戦後約三ヶ月にして、香港・マニラ・シンガポール・ジャカルタ・ラングーンなど、アメリカ・イギリス・オランダ三ヶ国の東アジア支配の拠点を占領した。

しかし、アメリカ軍は昭和17年(1942年)6月上旬のミッドウェイ海戦と、8月上旬から開始されたソロモン群島のガダルカナル島攻防作戦とをきっかけとして、総反撃に移った。この時の激烈な闘いに参加したのが。静岡で編成された第230連隊(歩兵連隊)であった。

昭和17年(1942年)10月中旬、インドネシアのバンドン攻撃で大きな戦果をあげた東海林支隊の主力第一大隊・第三大隊は、ガダルカナル島に上陸して、同支隊を右翼隊とするルンガ飛行場攻撃の夜襲作戦に参加したが、アメリカ軍の兵力・火力の過小評価などが原因で作戦はみごと失敗し、そののち、飛行場建設の任務、補給方針の変更などにより20日間ほどジャングルをさまよう悲運に出会った。

弾薬・食糧は尽き、マラリア熱や雨の寒さに苦しみ、夜襲失敗時に3,000人(2千数百人とも言われる)有った兵力は、軍司令部附近に戻ったときは7〜800名(1,000人とも言われる)しか残らず、それも青黄色の顔に目だけが光って、つえを頼りにのろのろ歩く廃人同様の兵士が多くなり、戦闘行為に耐えるものは2〜3人に過ぎなかったと言われる。

また、別働隊として上陸した東海林支隊の第二大隊は、弾薬・食糧の補給なしに、海岸の警備の任を与えられ、苦難な闘いを強いられた。翌年1月頃、同隊の傷病兵収容所に撤退(連隊主力への合流)が命令されたときには、すでに歩行能力をなくした兵士の手榴弾での自決が相次いだ。

ラバウル終結時に2,931人いた第230連隊の戦死者は、約2,600人、すなわち静岡連隊はほぼ全滅したのである。


ガダルカナル島戦争についての感想文(坂田ちづるさん・小6)


私は、このガダルカナル島の戦いについて、この戦いで河城の人は、6人戦死した。河城の人だけでなく、ほかの人たちもたくさんの人が戦死した。日本軍は28,000人もの人が戦地などで死んで、とてもびっくりしました。

中には、あたまの所に当たって、そのままその玉が頭から、とおりぬけるという人もいたので、とてもかわいそうだと思いました。


戦争についての感想文(黒田 誠くん・小6)


ぼくがもし戦争に行っていたら、てきのほりょになっていたかもしれない。戦争に行った人たちは、ほりょになるくらいなら死んだほうがましだとおしえられていたので、自分から死んで行ったんだと思う。そうゆう気はぼくにはないと思う。

でもそうやって死んだ人のしゃしんをみると、てっぽうで頭をうったり自ばくした人たちがすごくたくさんいる。あのしゃしんを見たときぼくは、ああいう時だいにうまれてこなくてしあわせだと思った。
でも反対に戦争のあった時だいにうまれてきた人たちはふこうな人たちだなあとおもった。いまこうしてしあわせに生活できるのも、その人たちのおかげだと思った。

ぼくはどうしてそんなに人をころしてまでも国をほしがったんだろうとおもった。ぼくらがいつも戦争、戦争といっているけれどその戦争のうらには、ぼくらが考えてもみなかったひさんなすがたがあることがわかった。
当時の小学生用国語の教科書。
学徒出陣の様子。(国際文化情報社近代百年史より)
学童疎開で引き裂かれた親子
中央町の浦上喜平さんは、戦争当時、東京から疎開してきた子ども達を、最後まで世話をしてきた人たちの一人である。

掛川への疎開児童は、小学生4年〜6年生で、肴町の蓮福寺、仁藤の天然寺、下西郷の永江院、神明町の真如寺の4カ所のお寺に、200名以上の児童がそれぞれに寄宿しながら、第一小学校に通った。

疎開児童は昭和18年(1943年)3月に、東京の下町方面が空襲でひどくやられ、東京は危いからと、8月に掛川にやってきた。この頃から戦火は日増しに激しくなり、昭和19年(1944年)には頂点に達した。

疎開児童は、老親や兄弟とも引き離され、会うこともままならなかった。こういう子ども達は全国に数え切れない程いた。その内、掛川にも焼夷弾が落ちるようになり、掛川も危ないからと、昭和20年(1945年)に岩手県の方に再び疎開していった。


食べ物がないこと程、辛いことはない


浦上さんは、疎開児童の親代わりとなって、毎日あっちこっちのお寺に慰問に行き、紙芝居や手品、お話しをしてあげたりしながら、時には子ども達のために遠方まで出かけて行き、買い出しもしてきた。

当時の食糧といえば、とうもろこし、切り干し芋に大豆。にわとりのエサみたいな物まで口にした。それでも、全てが配給制だったために、育ち盛りの子ども達は、いつもひもじい思いをしていた。

藤枝へみかんを買いに行ったり、浜岡へ切り干し芋を買いに行っても、大勢の子ども達に行き渡るのはほんのわずか。

浦上さんは当時を思い出して、「せめて子ども達には、腹いっぱい食べさせてやりたかった。何が辛いかって、食べるものがない程辛いことはない。栄養失調になっている人は数知れず、本当にみんな、ひもじい思いをしましたよ。」と回顧する。


品川駅での劇的シーン


疎開してきた子ども達の中にも、戦争で両親を失った子や家を失った子は大勢いた。しかし、先生も周囲の人たちも決して本人に知らせようとはしなかった。言えなかったのである。敗戦後、身寄りの無い戦争孤児達は、かっぱらいをしたり、悪いことをしたと言うが、誰が責められようか。戦争の犠牲者は戦争で亡くなった人達だけでは、決してない。

何も知らない子ども達は、岩手へ再疎開して行くとき、記念にと「浦上のおじさんへ」と書いた手紙や絵を贈ってくれた。そのどれもが戦争のことばかり。「勝利の日まで」「米英打倒」「敵ノ戦艦沈ミ行ク」「特攻機初夏の青空沖縄へ」子ども達は日本軍が勝つことを信じて疑わなかった。

日本はそれ以前の戦争で、負けたことがなかったため「神の国」と言われていたし、学校もそういう教育しかしてこなかったからだ。毎日毎日、掛川の空を飛んでいく米軍の戦闘機や爆撃機のB29を見ながら、子ども達は何を思っていたのだろうか。

子ども達が岩手県に再疎開していくときに、浦上さんは品川駅まで付いていったが、その時の劇的なシーンは可哀想で今でも忘れられない出来事だったという。

子ども達は、東京経由で行っても自分の家には寄ることも帰ることも出来なかった。駅のホームでは、我が子の姿を探す親と、汽車の窓から親を探す子ども達…。2年振りの再開なのに、逢える時間はほんのわずか。一目見ようと右往左往する親の姿が目に浮かぶ。中にはすでに亡くなっている親もいて、何も知らない子ども達は必死で親を探す。見ているのが辛かったという。


生きて帰ってくると思うなよっ!


浦上さんは徴兵されなかった代わりに、銃後(非戦闘員)として、地域のために奔走した。疎開児童の世話の他にも、婦人会の人達と共に、多くの兵士を見送った。駅のホームで「生きて帰って来ると思うなよっ!白木の箱に入って帰って来いよっ!」と、一人一人に声をかけたことが、今でも悪いこと言ったと悔やまれる。

あの当時は、誰も生きて帰ってくるなんて考えてはいけなかったし、口に出して言えなかった。軍人はお国のために命を捧げるのが当然という教育が徹底されていたからだ。ヘタなことを言えば、すぐに憲兵(軍事警察と行政司法の警察も兼ねていた)が来て連れて行かれた。言論・思想の自由などは全く無い恐ろしい時代だった。
掛川に疎開してきた子ども達。
子ども達が書いた絵と書道。
疎開先で就寝前に検査を受ける子ども達。(国際文化情報社近代百年史より)
学童疎開専用の列車。(国際文化情報社近代百年史より)
学生服のボタンまで武器になるとは知らなんだ
戦争中は次から次へと武器を作っていたから、物資の不足で、鉄や真鍮をはじめ、船を作るための木まで回収させられた。鉄の回収は昭和14年(1939年)頃から始まり、敗戦間近になると、窓にはめこんである鉄の格子から火鉢、蚊帳の吊り具、果ては学生服のボタンに至るまで、ありとあらゆる金属が家庭から消えていった。

菊川町西方在住の高は足恒夫さんは、「当時、真鍮の彫り物がしてある高価な火鉢まで持って行かれた。」と残念がる。高橋さん宅には、学生服のボタンが回収されたとき、当時の学生は学生服を必ず着用していたためボタンはなくてはならないものだったので、代わりに配られた陶製のボタンが保存されていた。


女性達の切ない願い


もうひとつ戦時中の代表的な物で、千人針というのがあった。これも大切に保存されているというので見せてもらったところ、腹巻きのような布の間に、千人の女性が縫い付けたという糸の玉がきれいに並んでいた。そして、5銭と10銭の硬貨が一個ずつ縫い付けてあった。どういう意味かと尋ねたら、「5銭は4銭(4銭は死線の意味)を超えるとうことで、、10銭は9銭(9銭は苦戦の意味)を超える。」ということだそうです。

千人針は、母や妻の「無事に帰って欲しい」という、切ない願いがこもっている。駅などの街頭に立ち、道行く女性に「お願いします、お願いします」と頼み込み、一人に一つの玉を縫ってもらう。同じ女性として、頼まれた女性は気持ち良く応じてくれたという。

出征した兵士はこれをお腹に巻いて、戦場で戦った。しかし、母や妻の願いも虚しく、若い命を散らした人も大勢いる。

高橋さんは、「私は(徴兵の)年が来たので、そのまま豊橋の予備士官学校へ行かされたが、外地には行かずに終戦を迎えた。外地へ出る教育を受けていたんですが、出る前に敗戦が濃くなり、出られなくなってしまったんです。終わってホッとしたというより、それまでの長い間の教育が、国のためなら死ぬということばっかり教えられてきたので、やっぱり負けたと知った時はショックでしたよ。歌にもあるように『死んで帰れと励まされ…』って、出かける時にそう言われて送られた。死んで帰れなんて言われたら、決していいきもちじゃなかったけど…。だけど、もう二度と、あんなバカなことをしちゃあいかん。」と、しみじみ語ってくれた。実際に戦争を体験してきた人の実感だ。高橋さんの家でも、お兄さんとおじさんの2人が戦争で亡くなっている。


夜は空襲警報に怯え、昼は国のために働かされ…


高橋さんのお兄さんは24才という若さで戦死した。おじさんは、大阪商船という会社に勤務していたが、戦争のため会社ごと巻き込まれ、戦時物資の海上輸送をしていた。その途中で戦死したのですが、「南方洋上で戦死した」という通知だけがきた。兄と息子(長男)を同時に失った高橋さんのお母さんの悲しみはとても口では言い尽くせないだろう。その時にはご主人も他界していた。高橋さんが豊橋に行っている時は、幼い子どもを抱えて大変苦労をしたとのこと。

夜になると菊川町の上空にも飛行機が飛び交い。空襲警報が鳴り続けた。夜は満足に眠れなかったという。昼は働かなければいけないし、頭がおかしくなってくるそうだ。
女学生は、挺身隊として学校を辞めて工場へ行き、砲弾などを作ったりした。この辺は浜松とか沼津の工場へ行かされた。皆家を離れて下宿したそうですが、家が心配で帰りたくてしかたなかったようだ。中には、工場に行っている間に、家族が徴兵されてしまった人もいた。

農家の家では、残された年寄りと女性たちが作物を作り、強制的に供出させられた。産業組合(現在の農業協同組合)を通じて、決められた量を供出しなければならなかったので、作柄が悪ければ自分たちの食べる物がなかったという。まさに日本全体が、なんらかの形で戦争に関与させられていたのである。
右下が陶製のボタン。今でも真鍮のボタンや鈴などと一緒に紐でつながれて保存してある。
千人針の腹巻き。上が表面で左右には寅の絵が描いてあり、下の内側には「祈必勝健全」から始まり「必大願成就」で終わる仏教の言葉などが書かれている。
学校からも金属の供出が始まった。(国際文化情報社近代百年史より)
農家の人達は米などを供出した。(国際文化情報社近代百年史より)
戦争を知らない若者達
私は戦争は知らないが、戦争の体験を親から聞かされてきた。今の若者の両親は戦後生まれか、戦争の終わる間際に生まれたりしているので、殆どが記憶に残っていないか、知らない。体験談を聞くチャンスが年々薄れていく中で、戦争を知らない若者達は、戦争をどのように捉え、考えているのかを聞いてみた。


高校2年生の男子3人の座談会にて(本文は敬称略)
水谷好伸君(磐田市)/二村 衛君(大東町)/寺沢 靖君(掛川市)



78%:今まで家族の人達から、戦争についての話を聞いたことは?

水谷「お父さんから…。小学生くらいの時に、ちょうど戦争があって、目の前に焼夷弾が落ちたのを見たって聞いた。その時、飛行機が低空で飛んでて、ものすごい音がしたって…。」
二村「両親がまだ若いので、終戦後のことしか聞いたことないです。」
寺沢「お母さんから。空襲警報が鳴って、防空壕へ入ったっていうのは聞きました。」

78%:みんなが感じている戦争のイメージってどんなもの?

二村「あんまりイメージわかないね。結局は殺し合いでしかない。」

78%:兵器がどんどん改良されて、核戦争に進展しそうな気配なんだけど、これからそういったのは起こりそうと思う?

水谷「ありそうで、ないら…。」
二村「ありそうでない感じだけど、もしかしたらあるかもしれん。」
寺沢「そうそう、一歩間違えるとね」
水谷「ちょっとしたきっかけで(戦争に)なっちゃうんじゃないですか。つまらんことで…。」

78%:友だち同士で戦争の話しなんかしたことか有る?

水谷「全然ない。」

78%:戦争に関する映画を観たことがある?

二村「修学旅行で広島に行くんですが、その前に予備知識として入れておくようにって、(学校で)広島の原爆の映画を見せてくれました。」
寺沢「ピカドンじゃん!」
二村「そうそう、どれくらいの破壊力があって、どうのこうのというのはイメージ湧かないね。」
水谷「原爆でやられて、目がポローンって溶けてっちゃう感じで…」
二村「なんか、本当かなって感じでじられない。」

78%:生活の中で戦争に対する意識は持っていない?

水谷「全然持っていない。」
寺沢「あったら困るなあという程度で、実際にあるなんて信じられない。」
水谷「あったら危ないかなあって感じで…。」
寺沢「そりゃあ危ないさ。」
水谷「危ないと感じると言うより、一気にドカーンといっちゃうんじゃないかなあと思う。」
二村「だけど、今やりたいことを全然やってないじゃん。今死ぬのだけは、かんべんしてもらいたい。」

78%:(徴兵制度が出来て)徴兵検査に受かって行きなさいって言われたら、どうする?

水谷「どっかに、隠れちゃう。」
二村「やりたいことをやってさあ、これでもう死んでも悔いはないと思えば(行っても)いい。」
寺沢「だけど、核戦争が始まりゃあ、一気に片付いちゃうから…。」
水谷「ついちゃうな。始りゃあ、終わりって感じ…。」
寺沢「大きくても小さくても、絶対戦争はやっちゃあいけないことだと思う。だけど、僕らには止めようがない。」
二村「素直にあきらめたまえ。始まったらどうしようもないら…。」
寺沢「自分の力でどうにかなることって、殆ど無いし。」
水谷「テストの成績ぐらいだら…。」
二村「俺たちは、学校の校則一つ変えられないもんな。」
寺沢・水谷「そう、そう。」
寺沢「なんでもかんでも、上から押しつぶされちゃうから…。」


個人インタビュー:足代美映子さん(緑ヶ丘・高校1年)


中学生の時に、掛川西高校の学園祭で上映された戦争映画を観て、強いショックを受けたと言う。
「日本人が満州の人達の首を切る時に、笑いながら切っていたりとか、その首を持って笑いながら記念写真を撮っている場面があって、人間のすごさ(残酷さ)を見せつけられたようでショックでした。」

足代さんの場合は、お母さんは戦争体験がなく、お父さん(九州生まれ)は、小さいときに広島の方に疎開して居たそうです。幸い山の手の方だったので、原爆の被害は避けられた。

78%:戦争は何故起きるのでしょうか?

「人間っていうのは、欲のかたまりと言うか、野心というのか、そういうのが大きくなり過ぎた時に、戦争に発展したしまったんじゃないでしょうか。」

78%:そうすると、今後も起きうる?

「世界全体の統一した平和がかなえられない限り、起こりうると思います。だけど、国のためなら死んできます、と言っても、個人としてはもう一度故郷に帰ってきたい気持ちはあるはず。そんなところで死んでも、国の利益にはなるかも知れませんが、自分自身の精神的な利益にはなりません。」


個人インタビュー:龍崎君子さん(上内田・高校1年)


龍崎さんの家では、中学一年の時までおじいさんが生きていたので、戦争体験の話をいろいろ聞かせてくれたそうです。

78%:おじいさんからどんな話を聞きました?

「家の方は結構田舎なので、自分達が疎開したって言うんじゃなくて、いろんな人が来たそうです。おじいさんは闘ったんじゃなくて、なんか、お金の計算みたいなことをしていたみたいです。とにかく、食べものがなかったことが一番辛かったみたいですね。」

78%:友だちの間で戦争の話題は出ますか?

「戦争についての話題は出ません。」

78%:戦争に関しての写真展とか映画を観たことは?

「原爆の写真展なんか見たことがありますが、すごいなあと思います。話で聞くより写真なんかで見た方がリアルですね。教科書なんかで勉強しても、あまり実感として伝わってこない…。」
左から水谷君、寺沢君、二村君
足代さん
龍崎さん
あとがき
昭和20年(1945年)8月15日正午、天皇はラジオ放送で戦争の終局を伝えた。日本の被害もきわめて大きく、死傷者253万人、戦災者875万人、罹災家屋236万戸に亜がっtが、戦争による被害はこれだけではなかった。敗戦後も餓死する人々が続出し、当時の新聞は「始まっている『死の行進』、飢餓はすでに全国の街に」と報道している。今年もまた5月15日がやって来る。「僕らには止めようがない。」と言った高校生。しかし、侵略戦争、大量虐殺は二度と繰り返してはならない。