せつぶん・まめまき・オニワソト
78%KAKEGAWA Vol.35 1983年2月号掲載
寒くて、冷た〜い冬の到来です。駅のホームや吹きっさらしの道を歩いていると、寒さで身体が縮み上がってしまいそうです。小学生の半ズボン姿、女子中学生のコート無しのセーラー服にスカートという出で立ち、もちろんストッキングなんて穿いていなくて、白のソックスのみで自転車を走らせている姿は、痛ましいというか、思わず同情してしまうのです。立春とはいえ春はまだまだ遠い。本当の寒さはこれからです。でも北国の雪に閉ざされた人たちの生活を想いながら、耐えましょう!

さて、2月3日は節分の日です。昔は「鬼は外!福は内!」と、どこの家からも大きな声が聞こえたものである。子どもたちは近所の家々を回っては、必死に豆や菓子をかき集め、「数は自分の年だけ食べなさい」と言われても、その何十倍もの豆を食べあさった。今での子どもたちは、ヘタな菓子には目もくれません。

こんな節分の風習も年々薄れて行き、何十年後には全く無くなってしまうのではないか、とさえ感じるこの頃です。
龍尾神社の豆まき風景
「鬼は外!」と言わない成田山の話から
現在の暦(太陽暦)に変わるまでは、旧暦の立春前日で旧暦新年の七日正月の前後に節分はおこなわれ、新年を迎える行事のひとつだったのです。現在では2月3日か4日の立春の日前日に行われています。

平安時代の宮廷では、恨みを持って死んだ人が鬼になって、災いをもとらすと信じられていたために、大晦日に鬼を追い払う行事が行われていました。これとともに、春の初めに神が訪れて祝福を与えるという信仰もあって、家の中に神を迎えるためにおはらいをする行事もありました。この鬼を追い払う行事と神を迎える行事がひとつになって、節分の行事が出来上がったのです。

この節分は、殆ど全国共通で、どこの地方でも同じ様なやり方で行われています。しかし、千年もの昔から「成田不動」として信仰されてきた千葉県の成田山の豆まきは、絶対に「鬼は外」という掛け声をかけないのです。何故かというと。不動様の慈悲の前には鬼がいるはずがないということだからそうです。さて、掛川はどうでしょうか?
原里正道地区(はらさとまさみち)
「店(たな)へ行けば…

「昔のこどもにとっちゃあ、節分も楽しみでねぇ、ああいう行事も、本当は残していきたいだけんが…。」溜息交じりに感想をもらすのは、現在76才になる戸塚はやさん。

隣部落の平島という処から17才の時に正道の戸塚家に嫁いできた。はやさんが嫁いできた家は、近所の人たちから「店(たな)」と呼ばれる、正道(戸数26〜27軒)では唯一の商店であった。(現在は営業していない。)

「昔は、子どもたちが集まって、各家をまわりながら、豆拾いをしたもんだけえが、他の家ではお菓子とかそういう物を投げる家はなかっただよ。わたしらん家じゃあ、商いをしていたもんでね、昔だっても、ずうっとお菓子を投げてやったもんだけえが、子どもらが喜んでねぇ。『店(たな)へ行きやぁ、お菓子を投げてくれる!』って言って、子どもらんいっぱい集まって来ただよ。この家の前がいっぱいになる位集まって、みんなして拾ったりなんかしたっきけんが…。」

時代の流れと共に、節分の日がきても、各家庭では、お体裁程度に豆まきをして済ませるだけになってしまってきている。


匂いの強い者で鬼を追い払う

ここ正道では、今から20〜25年位前までは、節分の日が来ると各家ごとに木を割って、その上に炊いたばかりの御飯をのせ、その家のおうど口や井戸、地の神さま、仏様などに置いていく習慣があった。

その後で、頭の毛とか、にんにく、イワシの頭など、匂いの強い物を台の上で焼いて、それを切り棒の先につけて、先にあった御飯の上に匂いをつけて回るのである。(この日はさぞや村中が臭かったことであろう。)

「鬼を払うと言うことでなんしょ匂いの強いもんをやっただに、今じゃそんなことする人もないらいねぇ。その夜は『やえかがしのそうろう!』って、大きな声で叫びながら、各家に回ったもんだけんが…。」

今ではこの地区もどこの家にも当然のように自家用車があって、町へ出るにもほんの20〜30分で着いてしまう。「昔はお正月が来るとか、お盆が来るとかっていう時に、町へ買い物に出かけるくらいで、ほとんど近くの店ですませていただいねぇ。だもんで、何か行事があるって言うと、うれしかっただよ。」と、戸塚はやさんが言うように、原里(昔は原里村と言った)は、市の中心街からかなり北部の静かな村である。

「1月7日には七草がゆをやったり、15日の成人式にやあ、あずきと餅を入れたあずき粥というのをやっただだよ。あずき粥というのは、お粥にした御飯の中に、あずきと餅を入れて柔らかく煮込んだものだけんが、そうして家の中の神さまを真二ただあね。今じゃあ、何っか省いちゃって、やらないもんでねぇ。」素朴な田舎の行事も、年々失われていく中で、お年寄りは昔を懐かしんでは溜息をつく。
戸塚はやさん(76才)
居尻地区
今の時代が信じられない…

「さぶいもんだで、身体をあっためるために、ちっともやってただよ。」と、明治26年生まれの渡辺みかさんは90才だというのに、外で薪割りが出来るほど元気がいい。四方を山に囲まれた居尻地区の産業は、林業・お茶・しいたけ位で、昔は背負いカゴにお茶やしいたけを入れて、掛川の町や森の町に売り歩いたものだと言う。渡辺みかさんも例外ではない。

「掛川の町も森の町も、どっち行ったって、山を登ったり下りたりしにゃあならんだだいねぇ。食べるもんだって、町に行かにゃあ無いもんだで、よく行きましたよ。お茶作って摘んでも、町へ持って行かにゃあ売れやあへんし。朝、なるたけ早く出かけて行くんだけんが、帰る頃にゃあ暗くなるだに。」

昔は、小市(西郷バイパスのインター付近)の辺りまでは、道路沿いには一軒も家がなかったそうで、それまでの距離がとても長く感じたそうである。細くて険しい林道を歩き続けた渡辺さんにとって、現在の様変わりした様子は信じられないと言う。

「行くとすりゃあ、荷物を10貫(37.5kg)から11貫(41.25kg)位背負って、帰りにゃあ、またお米やらかついでこにゃあならんもんだで、楽しみにも何も苦痛だったいね。一人じゃあ恐いもんだで、連れをこしらえちゃあ、一緒に行くだよ。『行ってみたいけんが、あんたはどうだいねえ』って誘って、そうしちゃあ行っただよ。」

産業が乏しく、働きに行くところもなかったために、村全体の生活が貧しかった。ほとんどの人が林道の工夫として働いていたが、渡辺さんもその中の一人だった。朝から晩までがむしゃらに働いて、一日の日銭が22銭くらいであった。お米が一升15銭、麦が9銭の時代である。お米を一升分手に入れるために、力の要る大変な仕事をこなしてきたのである。だから、渡辺さんにしてみれば、今の若い人達がもらってくる給料の金額が信じられないとも言う。だから、時々桁を間違えてしまうと笑う。

そんなわけで、貧しいこの村では、節分の日にも、お菓子をまく家もなかった。「山がじゃあ、隣に行くっていったって、遠いもんだで他の家へ豆を拾いに行くようなこともなかったね。」


豆まきは、夜の一番最後…

節分の日が来ると、各家の門口には古い草履やコウシダ(?)を入れた籠を長い竿で吊したものが並ぶ。それから、樫木を20〜30cm位に切ったものを、二つに割ってそれに十二という文字を書いて玄関の入口に置いておく。新しい年を迎えるために、十二月の鬼を追い払うという意味がある。それもカンズ(コウゾのこと・和紙を作る原料になる)と柳の木を焼いて、その消し炭で字を書いていた。

「それも、鬼威しのためにやるだいね。樫木のことを鬼木っていうくらいだでね。その当時は子ども心にも、本当に鬼がいると信じていただいね。その夜は、山から犬山椒(いぬざんしょう)の木を切ってきて、それで箸を作って、その箸でおはぎを食べただいね。子どもの時だったもんで、どういう意味があるだかわからなんだけえが、そうしにゃあならんことと思ってやってたもんだで。他にも、蒜(ひる・ニンニク)とか魚の頭を砕いて進ぜんたり…わしらん子どもの時分にゃあ、そんなことをしては、鬼を追い払っただよ。今じゃそんなことしやあへんけんが…。豆まきは、夜の一番最後にやったですよ。まめで一年暮らすようにってまくですよ。くだらないことだけんが、子どもは喜んで拾ったですよ、アハハハ…。」


節分の豆を、雷の鳴った日に食べる

たくさん拾った豆の中から、その日は年の数だけ食べる。残った豆を数えて、いくつ残ったかで何歳まで生きられるかを占ったそうして、残った豆は紙にくるんで、翌日からはおやつがわりに少しずつ大事に食べるのである。この豆は、特に雷が鳴った時に食べるといいとも言われていて、子どもたちはそれを信じていたそうである。

また、昔はこの地区ではどこの家にも囲炉裏(いろり)があった。火を焚いている囲炉裏の隅っこの方に、豆を12個並べて、一年のお天気を占う遊びもあった。12個の豆は1月から12月までを指す。「しばらく置いて、えぶって(いぶる)黒くなる豆と、黒くならずに白いままの豆があるだに。白くなってりゃあ、その月は天気が良くて、黒くなってりゃあ、その月は雨だって言っちゃあ遊んだだいね。」

今では、居尻地区で囲炉裏のある家は、島根県から移住してきて竹細工をしている伊藤千章さんの仕事場にあるだけになってしまった。渡辺さんの家でも、今では小さい子どもがいなくて大人ばかりになってしまったので、節分がきても豆まきは行わなくなってしまったそうである。
渡辺みかさん(90才)
連雀と肴町
埃まるけのお菓子…

幸田みさ子さん(77才)の記憶に寄れば、昭和35〜36年位までは、まだ節分も派手に行われて居たそうである。「たくさんまかにゃあいかんもんで、みかんの屑を買ってねえ。一番安い『まき用』っちゅうみかんがあってさあ、菓子も安っすい菓子で、ビスケットとか、落花生の皮付きのとか、芋切り干しとか、そんなものを混ぜて、薄暗くした座敷でまくのよ。ところがねえ、今でも忘れられないのは、畳をド〜ンとたたきゃあ、埃がいっぱい出るような所もあって、子どもが意気揚々と帰って来て中身を見たら菓子が埃まらけで、アハハハ…。よくあったねえ。なんしょう、両手でかき集めるだよ。手拭いで作った袋に、だいたい一杯になって帰って来たよ。」

中には、途中で家に帰って、中身を空にしてもう一度出かける子どももいた。頭にみかんが当たってひゃーひゃー泣き出す子ども、隣の子にみんな取られて何も取れない子、両手で引っかき集めている要領のいい子…。建前の時の餅拾いの光景に似ている。


金の力は大きい…

「ほいから、おだいさま(財産家)の家へ行くと、5円玉が包んで入っているときがある。5円(御縁)がありますようにってね。1銭玉も入っていたけど、だいたい5円玉が多かったねえ。この近辺では小泉屋位しかなかったけど。『小泉屋へ行くとお金があるで、行かにゃあいかん』って、子どもが待ち構えていてねえ。お金のある家は、いいものをまいてくれるもんで、そこへ集中的に行くんだね。人がいっぱいだったよ。」

まく家の人が、外に出て大声で「今度、俺んとこでまくぞう!」って呼ぶ。そうすると一斉にみんながすっ飛んで行ったそうだ。いかにも楽しそうな光景である。しかし、世の中が進んでくると、そういったものが不衛生だと言う人が出てきたりして、次第にお菓子も袋の中に入れられて、配られるようになったという。
また、近年お菓子も珍しくなくなり、特に安い菓子などは見向きもされなくなってきた。今の子どもたちが何十年という月日を経て、思い出話を自分の子どもに聞かせて欲しいとせがまれたとき、いったい何を話してあげるのだろうか。いたずらも出来ず、ただひたすらにテレビにしがみつき、勉強に追われている今の子どもたち。いたずらも出来なくなった子どもは不幸である。


大きな袋を持って、町中とびまわった

「鬼の豆まかしょ、まかんたにゃはえんぞ!」節分になると、子どもの甲高い声が町いっぱいに広がった。と、懐かしそうに語るのは、肴町に住む中村一郎さん(74才)。旧掛川(現在の中心街)では、節分の日になると、豆を入れる大きな袋を作ってもらった子どもたちが、列をなし、自分達の住む町内の各家を歩いて回った。

「昔の自分達の若い頃、大正の初め頃には、手拭いを二つに折って縫い合わせた袋を、2つも3つもこしらえてもらって、多勢で束になって方々の家に行っては、鬼の豆をまくように言って催促するわけね。そうせると、その家の人がまいてくれるわけ。それをみんなで拾っては袋に入れて、それをしょって、一軒一軒グルグル、グルグル回りました。どこの家でもまいてくれましたよ。」

その当時のことだから、豆の方が多かったが、それでも中にみかんやらビスケットが混じっていて、子どもたちにとって、一年のうちで一番楽しみの日でもあった。子どもたちは、大きな袋がいっぱいになるまで拾って歩いた。
「子どもにとって、一年のいと(内)で一番楽しみだったわけですがね、それが、戦争中に物資が配給になるような時代に入って、節分はやめたと言うより不可能になってきたわけです。」戦争が終わっても、敗戦後の苦しい生活からは抜け出ることは出来ず、それを機会に、知らない間にすたれてしまった。


残念、残念、残念

「まく家でも、豆を煎って、キャラメルだとかビスケットだとか色々なものを混ぜてやって、まく方も楽しみにしていたわけね。拾う楽しみもあったし、まく楽しみもあった。極めて、その、なんちゅうかな…心豊かな生活があったわけ、昔は。それが今、何もないわけね。残念!」

「昔は節分だけでなく、隣の家で餅をついても、隣の家でぼた餅をこしらえても『隣じゃ餅つくのお、かあちゃ。持ってりゃ持ってくるのお、かあちゃ。』って言って、子どもたちが近所中を飛んで歩くわけね。そおせると、こしらえた家でも、ほっぽかいちうちゃあおけないもんで、勢いたくさん作って、自分の家の分だけじゃなくて、近所の家へもくれて歩く分をこしらえて、楽しんだわけね。それだから、一軒の家の行事が、みんなにくれる楽しみ、もらう楽しみという風にこんがらがって、実に素晴らしい雰囲気があったんですね、昔は。今は、そういうことが全然ないわけ。残念!」

昔は、どんなに小さな楽しみでも、隣近所で分け与え、今は「隣は何をする人ぞ」と、大きな楽しみも独り占めする時代になってきたようだ。
連雀・幸田みさ子さん(77才)
肴町・中村一郎さん(74才)
龍尾神社
龍尾神社の節分祭

神社仏閣では、一般的にその年の干支に当たった年男が豆をまくことになっているが、龍尾神社では年男にとらわれず、市内に住む善男善女が、裃を全員着けてまくことになっている。
節分祭は、去って行く冬を払って春を迎える。言い替えれば、悪を払って善を迎えると言うことになるのだそうです。春は一年の内で最も待ちこがれる季節でもあり、すべて一年は春から始まることから、節分祭が行われます。そして、まめになるようにと、一年の健康を祈って大豆(タンパク質を豊富に含んでいる栄養源)をまくのである。

龍尾神社の節分祭は今年で10回目を迎える。いくつかの豆をビニール袋に入れた福豆も2,000袋もまくお菓子は段ボール箱30〜40箱用意されている。また、景品には自転車やラジコンやゲーム機などもあって楽しみが増える。自転車やラジコンなどは投げて当たっては痛いので、替わりに引換券をまくそうです。当日は神社の境内がほとんど人で埋め尽くされてしまうほど賑わいます。豆まきは2月3日の夕方4時30分頃からはじまります。
お菓子屋で見つけた「福豆」
あるお菓子屋さんで「福豆」が売られていたので買ってみた。裏には豆まきの由来などが書いてあったので参考までに書いておきます。

……宇多天皇(867年〜931年)の御代に鞍馬山の鬼が出てきて都を荒らすのを、崑沙門(びしゃもん)の指示によって、七人の博士が四十九日の間お祈りをして、鬼の穴を封じふさぎ、三石三升の炒り豆で、鬼の目を打ちつぶして災厄をのがれたという故事伝説に起因しているといわれる。豆は蛋白質であるから、健康に通じて縁起がよいものとされている。なお、鬼はらいの効力のある豆を、年齢の数だけ食べるという週間は、後世でつけ足したものである。……

以上、「毎日まめ(豆)で我が家は笑顔」の旭ピーナッツ株式会社提供でした…。(鬼の面も付いていて100円とは安い?!)